Lメモ涼風譚5話「赤い夕闇に融けるまで」  投稿者:昂河
 胸の内に、どろどろとわだかまるものがあることがある。
 それが何なのか、つきつめる気はない。
 けれど、それは一度生まれると簡単には消えない。
 いつまでもどろどろとあって、僕の心を圧迫する。
 そんな時、僕はそれをどうしたらいいのか分からなくて、ただほうっておく。
 うごめくわけじゃない。もがくわけじゃない。
 ただ、それはそこにあって、僕にいつもと違う気持ちを抱かせる。
 日常の中で。変わらないはずの流れの中で。
 何かをほんの少し変えたいような気持ちになる。
 そう、たとえば──誰かをこの手で殺してみるとかね。
 「仕事」ではなくて、何も考えずに。
 だけど、これはそれで消えるんだろうか?
 ──そもそも消す必要などあるのか。
 これを何と呼ぶのか、そんなことに興味はない。
 ただ、そう。熱っぽくて、どろどろとした、気持ち。
 どうなんだろうね。
 いつか、これを心地良く思うこともあるんだろうか?
 それとも、疎ましいままなんだろうか。
 何にせよ、それが消えるまで、僕はただ夢想する。
 気持ちを落ち着かせるために。それが外に洩れないようにするために。

 僕は、いつになったら壊れることができるんだろう。





      Lメモ涼風譚5話「赤い夕闇に融けるまで」





 外は綺麗な夕焼けだった。
 空に浮かぶ雲は、夕日を照り返して赤く光っている。
 地面に落ちる影はうっすらと赤く、だからこそひときわ黒い。
 僕──昂河晶は、窓際の自分の席に座って外を見ていた。
 何をするでもない。ただ、ぼーっと外を見ている。どれぐらいの時間そうしている
のか、自分でも分からないし、気にしてもいなかった。
 教室に生徒たちの姿はすでにない。
 時計の音だけが、教室に響いている。
 僕は今、自分を持て余していた。
 何かが気に入らないわけでもない。何かがあったわけでもない。いらいらしている
わけでもない。
 だけど、確実に胸の内にはわだかまる何かがあった。
 以前から、たまにこんな気分に襲われることがある。
 何かのきっかけがあるわけでもない。ただ唐突に、気がつくと気持ちがこうなって
いる。
 落ち込んだような。それでいて、高揚しているような。
 何かが、渦巻いているような──凝(こご)っているような。
 どろどろとした気持ち。自分で解決することのできない、どうしようもないモノ。
 自分がいつもの自分ではなく──いや、何も変わってはいないのだけども──けれ
ど、何かが違うような、そんな漠然とした違和感。
 いや、違和感なんてない──僕は僕だ。
 こんな気持ちになるなんて、僕はただ疲れているだけなのかもしれない。
 ……何に?
 僕は目を閉じる。そんなこと分からない。知るものか。
 だけど、僕は何かを変えたくてしょうがない。
 何かをしでかしてみたくて、心が落ち着かない。
 そう、何か大きな──いや、大きくなくたってかまいやしない──今の僕が変われ
るような、何か。
 壊れてしまうような、何か。
 ──ああ、まただ。
「壊れるって、なんだよ」
 僕は声に出して言った。目を閉じたまま、下を向いて首を強く振る。
 違う。そうじゃない。そうじゃなくて。
 ゆっくりと目を開けて、外を見る。
 夕焼け。校舎の影が黒くて赤い。
 僕は、どうしたいんだろう。どうなりたいんだろう。
 そもそも、この学園に来たのだって──
「……そう簡単に変わりゃしない、か」
 決して晴れやかなものではない、この「思い」のような何かは、僕の中で熱っぽく
わだかまり、簡単には消えない。
 いつもこんな気持ちでいるわけじゃない。ふとしたはずみで、こんなふうに堂々巡
りになる。
 何をしても気分は晴れない。
 こんな気分の時に街を歩いたって、何をする気にもなれず、当てもなくうろついて
疲れて、いっそう嫌な気分になるだけだ。
 だから、僕はじっとしている。そして、思考の迷路に入り込む。
 そんな自分が──嫌いじゃなかったりもする。
 溜息をつく。

 「なぜ」の答えはでない。

 僕はもう一度溜息をつくと、ゆっくりといすから立ち上がった。
 屋上に行ってみようと思った。




 屋上に続く扉の前で、僕は深呼吸をした。
 なぜだか、心構えが必要な気がしたからだ。
 一瞬の間を置いて、扉に手を掛ける。
 ギィ‥、と音を立てて、扉は開いた。
 その隙間から、赤い光がこぼれた。
 ゆっくりと開ききって、外に出た僕は目を細めた。
 広がっていたのは、赤い空間。夕焼けが空を赤く染め、その場にあるもの全てを赤
く染め、空気さえも染めていた。
 全てが赤かった。
 僕はその場に立ち尽くしたまま、その空を眺めた。
 風が目の前を通りすぎて、僕の前髪を揺らしていった。
 しばらくして、僕はゆっくりと首をめぐらせた。
 赤。屋上も、空も、僕も。
 その中に。
 影が2つ、立っていた。
 影の主たちは、こっちを見ていた。僕は彼らを見て、唇に笑みを浮かべた。
 1人は知っている子だった。風が吹いて、肩には届かない長さの、彼女のさらさら
の髪がなびいていた。
 もう1人は知らない──いや、見かけたことはあるような気がする──少年だった。
夕日の赤を照り返している黒い髪。向けられている瞳は、冷めているような熱っぽい
ような…不思議な色をしていた。
 僕は彼らに近寄った。少女は風になびく髪をかきあげると、口元だけの笑みを浮か
べた。
「…こんにちは、昂河ちゃん」
「…瑠璃子ちゃん、こんにちは」
 なんだか間抜けな挨拶だった。
 月島瑠璃子。光のない澄んだ瞳を持った少女。
 そして、僕をこの学園に導いた人。
「電波、届いた?」
 瑠璃子ちゃんは、口元の笑みをそのままにして言った。
「…電波?」
 聞き返す。
「私と長瀬ちゃんの電波。届いた?」
「長瀬‥?」
 僕は瑠璃子ちゃんの隣の少年を見た。彼は、小さく笑みを浮かべた。
「こうやって話すのは、初めてだね」
「…そう、だな」
「僕は長瀬祐介。君と同じ2年だよ、昂河君」
 自己紹介をして、彼は目を細めた。
 なんだか落ち着いた雰囲気の人だ。
「長瀬君か。‥よろしく」
 僕は微笑みを返した。
 長瀬君の目は、なんだか優しかった。
 くすくすと笑う声がした。瑠璃子ちゃんだ。
「今日はいい天気だから、きっと昂河ちゃんにも届いたね」
「…電波の話?」
「うん、そう」
 そう言って、またくすくす笑う。
 今日の彼女は、機嫌がいいらしい。
「電波はね、誰でも受信できるし送れるんだよ。だけど、方法が分からないとだめな
の。でも、天気がいいと、届きやすいから」
「電波を意識して使っていない人でも、なんとなく分かるらしいよ」
 長瀬君が言葉を続けた。
「そう‥なのか」
「だから、君にも届いたと思うよ」
 僕は長瀬君の目を見た。
 優しい瞳。熱っぽいような、冷めたような、不思議な瞳。
「……長瀬君、君も電波を?」
 僕の問いに、長瀬君は小さくうなずいた。
「…もう、ほとんど使うことのない力だよ」
 そう言って、瞳を軽く下に向ける。
 電波。瑠璃子ちゃんがよく口にするけれど、僕にはあまり分かっていない。
 ただ、テレパシーのようなものだと漠然と捉えているだけだ。
「ひとりでは、ほとんど使わない。でも、たまに使うんだ。瑠璃子さんと一緒に、今
日みたいな日にはね」
 僕は、2人の後ろにある風景に目をやった。
 沈みかけた太陽。その光が届いている場所は赤く、届かない場所はほんのりと赤い
黒。
 雲が夕日を照り返して赤く光り、光と影のはっきりとしたコントラストが、屋上か
ら見える街を創りあげている。
「電波、届いた?昂河ちゃん」
 瑠璃子ちゃんがもう一度きいてきた。
「…分からないよ。僕には」
「でも、昂河ちゃんは来てくれた」
「…………」
 瑠璃子ちゃんと長瀬君の電波。
 僕に向けて送信した…?
「瑠璃子ちゃん、どうして僕に?」
 瑠璃子ちゃんは目を細めた。
「だって、昂河ちゃんだから」
「…………」
 くすくす、と瑠璃子ちゃんは笑った。
「ね、長瀬ちゃん」
「…そうだね」
 微笑んで、長瀬君が言う。
 瑠璃子ちゃんは、長瀬君を見てにっこりと嬉しそうに笑った。
「あ」
 僕は、小さく声を出した。
 今、瑠璃子ちゃんは笑った。
 普通の女の子と同じように。
 いつもの、気だるいような笑みではなく、嬉しそうに、顔全体で。
 僕は目を細めた。
 なんだか、嬉しかった。瑠璃子ちゃんも、普通の女の子なんだ。
 そして、それは長瀬君が隣にいるからなのだと思った。
 僕のそんな思いには気付かずに、瑠璃子ちゃんは僕を見た。
「昂河ちゃんの電波も、届いたよ」
「僕の…電波?」
 僕は目をぱちくりさせる。
「僕は、電波なんて使えないよ‥」
「みんな、電波を出しているんだよ」
 瑠璃子ちゃんはそう言って、髪を片手で押さえた。
 風が、僕らの間を静かに吹き抜けた。
「昂河ちゃん、また呼んでたから」
「…………」
「‥僕にも聞こえたよ、君の電波」
 長瀬君が言った。
「僕の、電波…」
「…どろどろとわだかまるものがあって。簡単には消えなくて。どうしたらいいのか
分からなくて。うごめくわけじゃなく、もがくわけじゃなく。ただ、それはそこにあ
って、いつもと違う気持ちを抱かせる…」
「……!」
 僕は目をみはった。
 長瀬君は僕を見ながらゆっくりと、言葉を紡ぎ出す。瑠璃子ちゃんの焦点の合わな
い瞳とは対照的な、意志のこもった瞳。
「日常の中で。変わらないはずの流れの中で。何かをほんの少し変えたいような気持
ちになる。そう、たとえば──」
「長瀬君、君は…」
 がまんできなくなって、僕は口をはさんだ。
 長瀬君が言った言葉の羅列。
 それは、僕の心だ。
 今もわだかまっている、どうしようもない僕の思いだ。
「どうして…」
「聞こえたんだ。僕と、瑠璃子さんには」
 長瀬君は静かに僕を見ていた。
 僕は、その瞳から目を離せなかった。
 熱っぽくて、冷めている不思議な瞳。
「君の強い思いが、電波になって伝わってきたんだよ」
「僕、の…」
「だから、電波を送ったんだ。ほうっておけなかったから…」
「どうして…」
 僕は少し混乱していた。
 そうだろう。だって、誰にも分からないはずの──洩れていないはずの思いが、実
は洩れていたんだから。
「どうして、ほうっておいてくれなかった…?」
 そんな言葉が飛び出た。
 どうしようもない思い。ほうっておくしかない凝(こご)り。
 実際に何をするでもなく、ただ夢想するだけの。
「うん、そうだね…」
 長瀬君は微笑んだ。
「…僕に似ていたからかな…。以前の僕に…」
 はにかんだように彼は言った。
「以前の…君?」
「僕は、扉を開きたかったんだ。色と音のない世界から、現実から、逃げてしまいた
かったんだ」
 赤い夕日を照り返す髪をかきあげて、長瀬君は視線を地面に向けた。
「狂気という名の扉を開けて、ね」
 狂気。
 どくん、と胸が鳴った。
「僕は憧れていたんだ。扉を開けて別な世界に行ってしまうことにね。でも、それは
…裏返しだったんだ」
「…裏返し?」
「そう。僕は、本当は世界から消えたくなくて、助けを求めていたんだ。それが電波
になって……瑠璃子さんに届いたんだ」
 長瀬君は瑠璃子ちゃんを見た。僕も瑠璃子ちゃんに目をやった。
 瑠璃子ちゃんは、空に向けていた瞳をゆっくりと下ろして、僕らを見た。
「僕は、瑠璃子さんに助けてもらった。瑠璃子さんがいたから、僕は…ここにいる」
「長瀬ちゃんは、長瀬ちゃんだから」
 瑠璃子ちゃんは、優しく微笑んだ。
「長瀬ちゃんも、私を助けてくれたよ。だから、私もここにいるよ」
 焦点の合わない、大きな瞳。だけど、彼女は優しく笑っていた。
 信頼しているんだ。そう思った。
 なんだか、長瀬君がうらやましかった。
 長瀬君は、瑠璃子ちゃんに優しく微笑み返してから、僕を見た。
「…だから、と言うとなんだかおこがましいんだけど…君をほうっておけなかった。
助けたいと思ったよ。壊れたいって、君は泣いていたから」
「…………」
「昂河ちゃん、あの時もそうだった」
 瑠璃子ちゃんが言った。
「あの時?」
 僕は聞き返した。
 でも、彼女の言いたい事は分かった。
 初めて会った時、瑠璃子ちゃんは僕の電波が聞こえたのだと言った。僕が呼んだの
だと。
「あの時も、昂河ちゃん泣いてた」
 瑠璃子ちゃんは、そっと僕の手を取った。
 柔らかな、けれど少し冷たい手。
「悲しい、寂しいって泣いてた。壊れそうで、変わることもできなくて、そこから動
けなくて……逃げることもできなくて」
 きゅっ、と瑠璃子ちゃんの手が僕の手を握る。
「‥消えちゃだめだよ、昂河君」
 長瀬君が言った。
「君は、消えたがってる。…僕は、消えることが恐かった人間だから、君とは逆だけ
ど」
 消えたがっている…壊れたがっている、僕の心。
 誰にも知られることはないはずだった。
 誰にも知られずに、独りでこの思いを抱えていたはずだった。
「でも、完全に壊れたら何も残らないんだ。そして、誰にも何も残せないんだよ」
 静かに、だけど熱心に長瀬君は続けた。
 赤。
 瑠璃子ちゃんの髪も、服も、手も、赤。長瀬君の髪も、服も、手も、赤。
 たぶん、僕も赤い。
 さっきまでの僕の気持ち。
 落ち込んだような。それでいて、高揚しているような。
 何かが、渦巻いているような──凝(こご)っているような。
 どろどろとした気持ち。自分で解決することのできない、どうしようもないモノ。
 それが赤い中に、ゆっくりと融けていく。
 なくなっていくわけじゃない。でも、張り詰めていたものがゆったりとしていく。
「君は君だよ。ちゃんとここに存在しているんだ。壊れなくても、大丈夫だよ」
 長瀬君は、静かに僕を見ている。
 瑠璃子ちゃんの手がひんやりと心地いい。
「僕に言えることなんて、あまりないんだけど。できることなんて、ほとんどないん
だけど……でも。僕は、瑠璃子ちゃんと一緒に君の電波を受信したから」
 風が強く吹いた。瑠璃子ちゃんの髪が、さらさらと風になびいた。
 長瀬君が、自分の髪をかきあげる。
「ちゃんと、君は変われるよ──僕が色と音を取り戻したように。この学園なら、き
っと手助けしてくれる人がいるから。僕らみたいに…ね」
 何かを変えたくてしょうがなくて。
 何かをしでかしてみたくて、心が落ち着かなくて。
 何か大きな──大きくなくたってかまいやしない──今の僕が変われるような、何
かを求めていて。
 壊れてしまうような、何かを。
 僕は軽く目を伏せた。
 僕は──また、泣いていたのか。
「僕が泣いていて…そして、君は僕をここに誘ってくれたんだったね…」
 僕は、僕の手を握る瑠璃子ちゃんの手を軽く握り返した。
「ここに来てわりとすぐに、色々見つけたんだよ。ここは、僕を受け入れてくれる場
所だと思った。それは、今も変わらないよ」
 瑠璃子ちゃんは、僕を見上げた。月のない夜の湖の様な、光のない大きな瞳。
「だけど、僕は──僕の中身は、そう簡単には変わらないんだ。だから、またこうい
う気持ちになるかもしれない。そうしたら──」
「助けてあげられるよ」
 瑠璃子ちゃんは言った。
「私も、長瀬ちゃんも。みんなも、助けてくれるよ」
「……うん」
「だから、…泣いていいよ」
 瑠璃子ちゃんは僕の手をそっと胸の所まで持ち上げると、抱きしめるように両手で
包み込んだ。
 僕は何も言えなかった。ただ、じわりと視界がにじんだ。
 長瀬君も何も言わず、優しい瞳でこっちを見ていた。
 このどろどろとした気持ちは、きっとまた僕の中にわだかまるのだろうけれど。
 大丈夫かもしれない。そう思った。
 ゆっくりと沈んでいく赤い光の中で、僕の体に瑠璃子ちゃんの黒い影がほんのりと
赤く映っていた。