粉雪の舞う2月。時はすでに10日を過ぎている。 この時期、誰もが気になるのは14日だろう。 バレンタインデー。いつの頃からか、女性が男性にチョコレートを贈り、愛の告 白をするということになっている日。 商店街のあちこちの店で、チョコレートが売られており、女性客が品物を選んで いる。 そんな一軒の店の前で、昂河はふと足を止めた。 店内のディスプレイケースには、綺麗にラッピングされた箱と、箱詰めされたチ ョコレートの見本が並んでいる。 「…………」 こういう物を贈られたら、やはり嬉しいだろう。しかも、それが自分が好意を持 っている相手からとなると、勿論嬉しさは何倍にも増すに違いない。 そんなことを考えながら見ていると、不意にポン、と肩を叩かれた。 振り返ると、そこには優しい笑顔を浮かべた、黒髪の美人が立っていた。 「千鶴先生……」 「お買い物?」 彼の学校の教諭である柏木千鶴は、そう言って微笑んだ。 「ええ、まあ」 「チョコレートを見ていたの?」 「ええ。欲しいなーと思って」 「自分で買うの?」 「いや、そうじゃなくて」 ちょっと慌てた昂河に、千鶴はくすくすと笑った。 「でも、この時期のチョコレートって、色々綺麗なものがあるから自分でも欲しく なるのよね。勿論、好きな人に渡すのは手作りだけど」 「…………手作りですか……先生の?」 「あら、なあに?」 思わず真剣な顔で聞き返した昂河に、千鶴はさっきとは違う有無を言わせぬ笑顔 を返した。 「い、いえ……まあ、どんなものでも、手作りだと嬉しいですよね、うん」 触らぬ神に祟りなし。昂河は曖昧にごまかした。 「昂河君は、あげたい人はいないの?」 「どうして僕があげるんですか」 「だって、好きな人がいるんでしょう?」 「それは……」 思わず、言葉が詰まった。 千鶴は優しげな瞳で昂河を見ている。彼女は、彼が「彼女」であることを知って いる。 そのことが頭に浮かんで、だからそんなことを言うのだと思った。 だが、彼女はこう言った。 「バレンタインデーってね、日本では女性から贈る日になっているけど、欧米では 男性からも贈り物をする日なのよ」 「え……」 「だから、男の子が女の子にプレゼントをしても全然おかしくないの」 「…………」 「贈ってみてもいいんじゃない?」 まったく自然に、千鶴は提案した。 「男の子からチョコレートっていうのも、目新しくてよさそうでしょう?」 「そうでしょうか……」 「ええ」 にっこりと、千鶴は笑った。 「昂河君の場合は、あんまり深く考えなくてもいいんじゃないかしら」 「…………」 「あ、ごめんなさい。私、もう行かないと。それじゃ、またね」 答えあぐねているうちに、千鶴は小さく手を振って歩いていってしまった。 (…………僕から、贈っても、か) 昂河は改めて、飾ってあるチョコレートに目をやった。 「……やっぱり、チョコレートもらえたら嬉しいよな」 昼休みの屋上。少し寒いが風はそれほど冷たくなく、あまり厚着をしなくても平 気でいられるくらいの気温だ。 「そりゃ嬉しいと思うよ」 昂河の言葉に答えた八塚崇乃は、いつもよりはましだが、それでも着膨れている。 この男は寒さにはとても弱い。 「俺は……マナさんからもらえればそれでいいけど……くれるかなあ……」 「どうだろうな……僕の見立てでは、くれそうな気がするけど」 「だといいなあ」 崇乃は溜息をつくと、手袋をした手で湯のみを持った。 「なんでチョコレートをもらうでし?」 崇乃の肩の上の鈴花が首を傾げる。 「2月14日はバレンタインデーっていって、女の人が好きな人にチョコレートを 贈る日なんだ」 「そんな日があったんでしか」 崇乃の説明に、鈴花は感心したように言った。 「……千鶴先生いわく、欧米では女性に限ったことじゃないらしいけどね」 「俺も聞いたことがある。チョコレートを贈るっていうのは、お菓子会社のキャン ペーンから始まったんだって」 「へえ、そうなんだ……」 昂河はあいづちを打つと、お茶を口に含んだ。 いつも崇乃が用意しているお茶は、水の精霊エスプィアが用意する質のいい水の おかげで美味い。 「きっかけがないと好きな人に贈り物なんてできないのは確かだもんな」 「そうだな……」 「晶は、吉田さんからもらいたいんだろ?」 崇乃の言葉に、昂河は思わずお茶を吹き出した。 「……昂河しゃん、きたないでし」 「ご、ごめん」 慌ててティッシュで服に散ったお茶を拭く。 「何を今更慌ててるんだ?」 崇乃が笑った。 「いや、まあ……そうだけどさ」 「もらえるといいな、お互い」 「……ああ」 うなずきながら、昂河は吉田由紀の顔を思い浮かべた。 確かに、もらえるなら嬉しい。だが、もらえるという保証はどこにもない。そも そも、自分に好意を持っていてくれるかもあやしい──少なくとも、友達としては 見てもらえていると思うが。 「やっぱり、この日に贈り物をするっていうのは意味があるよな」 「あるんじゃないか、やっぱり」 「……先手必勝、かもなあ」 湯呑にお茶を継ぎ足しながら、昂河は呟いた。 「昂河さん、実は女性でしたか?」 真面目な顔で言ったbeakerに、昂河は慌てた。 「ちっ、違うよ! そうじゃなくて、あの、その」 「そんなに慌てなくてもけっこうですよ。僕だって、バレンタインは女性だけのも のではないことくらい知っています」 くすくす笑ったbeakerに、昂河はほっと胸をなでおろした。 第2購買部。ゆりかごから墓場までなんでも揃うここに、昂河は来ていた。 「それにしても、わざわざ人の少ない時をみはからわなくても。チョコレートくら い買っても変な目で見られはしないでしょう」 「……女の子が群がる「バレンタイン用チョコ」のワゴンにいても?」 「いやいや、わりといらっしゃるんですよ、自分で自分用のチョコを買っていかれ る方が。そう珍しくもないです」 「さすがにそういう根性はないなあ」 笑ったbeakerに、昂河は苦笑した。 「それで、これでよろしいんですか?」 「はい。お願いします」 うなずいた昂河に、beakerは慣れた手つきでチョコの箱をラッピングした。 結局、昂河はチョコレートを贈ることに決めたのだ。もちろん、相手は由紀であ る。 とはいえ、この時期に男がチョコレートを買うというのは心理的に至難の技だ。 それで考えて、秘密は厳守してくれる第2購買部で買うことにしたのだった。 肝心のチョコと、包み紙とリボン。組み合わせは全部自分で決めた。 「がんばって下さいね」 ラッピングしたチョコを小さい手提げバッグに入れて渡しながら、beakerが言っ た。 「ありがとう」 たとえ社交辞令だとしても、そう言ってもらったことで、緊張していた昂河の心 は少し楽になった。 自宅の机の上で、昂河は溜息をついた。 目の前には、第2購買部で買ったチョコの包みがある。 実はそんなに深く考えず、「贈ったら喜んでもらえるかな」程度の考えで用意は したものの。 いざ、渡すということを考えると、ためらいが出る。 バレンタインにチョコを渡す、ということは、相手に告白するのと同義だ。 いや、もちろん友達に渡す「義理チョコ」というものもあるのだが、では自分が 渡すのは義理でかと言えば、それは違う。 自分は、由紀が「好き」だ。 けれど、その「好き」は果たして「恋」とか「愛」とか言えるのか。 その答えは、未だ自分の中では出ていない。 確かに、彼女を可愛いと思うし、おつきあいができたら嬉しい。嬉しいけれど、 自分は──それ以上先には進めないのだ。 誰かを、特別に好きになっては、いけない。 そんなことは分かっていたはずなのに。 「…………」 また溜息をついて、机の上にうつぶせる。 もしかしたら、好意を目に見えて示すなんてしない方がいいのだろうか。 「大事な友達……じゃ、駄目なのかな……」 昂河にとっては、Leaf学園でできた友人は、みんな大事だ。けれど、その中 でも特別なのは、月島瑠璃子と由紀だ。 ただ、瑠璃子にはチョコを贈りたいとは思わない。彼女は、自分にとってはそう いう「特別」ではない。 由紀は、瑠璃子とはまた別に特別な存在だ。 彼女の笑顔は、いつも自分に力をくれる。 自分は彼女に何もできていない。だから、せめてお礼がしたい。 (それで、いいんだよな) うつぶせたまま、昂河はそう思った。 好きとか、そういうことじゃなくて、お礼。それなら、別にあげてもおかしくは ないのではないか。 そう、納得すると、昂河は何度目かの溜息をついた。 それから数日後の、2月14日。 昂河は贈るためのチョコをカバンに入れて登校した。 ちょっとばかり緊張しているのが自分でも分かる。 (今からこんなことでどうするんだよ) 心の中で、自分を叱咤する。 深呼吸をして前を見たとき、昂河は級友の姿を発見した。 「おはよう、佐藤」 「あ、おはよう昂河君」 佐藤雅史は、声をかけた昂河に振り返って、にこっと笑った。 「いつも早いね」 「佐藤こそ、早いじゃないか」 「早く来ればそれだけ浩之と話ができるしね」 「なるほど」 話しながらげた箱まで来る。 と。 「佐藤先輩っ」 せっぱつまったような声がかけられた。 そこにいたのは、長い黒髪が印象的な女の子だった。 「あ、美加香さん。おはよう」 同じ工作部の赤十字美加香は、声をかけた昂河にぺこっと会釈してから、雅史の 前に立った。 「何か用かな?」 いつもの笑顔のまま、雅史が問う。 「あの、先輩。これ……」 そっと美加香が差し出したのは、小さな箱だった。 「私が作ったんです。食べてください」 「いらない」 きぱ。 爽やかに雅史は言った。 「あ、あの、でも」 「僕がチョコをもらうのは、浩之からだけだから」 にっこり。 変わらぬままの爽やかな笑顔を浮かべると、雅史はさっさと歩いていってしまっ た。 後には、美加香と昂河が残る。 「…………」 雅史の後ろ姿を見送る美加香に、昂河は何を言っていいか迷った。 「…………ふ」 「……ふ?」 「…………ふふふ…………」 美加香の肩が震える。 「……美加香さん、あの……」 「いつもいつもいつもいつも…………ああ、なんて遠慮深いんでしょう、佐藤先輩 ってば……」 ほぅ、と美加香は溜息をついた。 「ああやって、藤田先輩との友情を第一に考える……。あぁ、なんてストイック な……」 そう呟く美加香の瞳はきらきらと輝いていた。 そう、さながら漫画の主人公のように。 あれは友情とはちょいと違う、とツッコミを入れるのは野暮というものだろう。 恋する乙女の瞳にはフィルターがかかるものなのだ。 本人が納得してるようだしまあいいか、と、昂河は陶酔している美加香を置いて その場を後にした。