それは、よく見知っている箒だった。 幾つもの失敗と経験を繰り返して作り出された英知の一つの結晶。 それに文字が、文章が刻まれた、希亜の記憶にあるどんな文字とも違う文字が。 だが不思議と読むことが出来た。 空を越えてゆく者よ、汝の姿は人々の願い。 虚空を目指す、今は叶わぬその想い。 その姿、放たれるそれよりなお猛く。 その姿、空を越えてなお高く。 その力、この人々が見上げるこの空より。 その力、再びこの空へ。 昇りゆけ我らの願い、昇りゆけ我らの想い。 再び見ること叶わずとも、昇りゆけ天津風を切り裂いて。 見上げる虚空、全てはお前の力。 刻まれたそれらの文字は、一度淡く光を放つと、吸い込まれるように消えていった。 その箒、Raising Arrowは何人かの技術者に囲まれて、静かにそこにあった。 朝靄も既に晴れた中で、希亜はルームメイトの軍畑と同期の蛮次と共に登校してい た。 ふとバランスを崩す。 「わぁ!」 「っとぉ! おんし気を付けて歩かんと危ないぞ」 躓いた所を、とっさに平坂蛮次に捕まれて事なきを得た希亜。 「蛮ちょさん、ありがとう」」 「おお。 考え事するんも良いが、おんしは歩きながら考えん方がいい」 「そうっスよ、弥雨那ちゃんは歩くのは上手くないんスから」 「そうですねぇ」 歩き慣れているはずの朝の通学路を、学校へ向けて歩いている希亜の脳裏には、今 朝見た夢の事だけが広がっていた 選択科目の教室で、ぼんやりと希亜は窓の外に広がる空を見上げていた。 まだ授業には早く、希亜以外には人気はあまりなかった。 「いったいどうしてあんな夢を見るんでしょうか」 登校中にも考えていたことをもう一度考え直してみる。 Rising Arrowは希亜の曾 祖母のいた、同時に希亜の師の出身世界であるグエンディーナで作られた物だ。 今まで見た夢が全てそうだとは言わないが、グエンディーナでの曾祖母の記憶なの でないかと、希亜の中で仮定が立てられていた。 もしくはRising Arrowの記憶ではないかと。 ぼんやりと今朝見た夢を反芻しながら希亜は、なぜ今になって夢を見るのかを考え ていた。 昼の校舎屋上。 いつものように希亜は綾芽の横にちょこんと座り食事を終えていた。 新学期に入ってから少し変わった様に見えた希亜の綾芽に対する接し方に、綾香達 は興味津々で成り行きを見ていた。 今までよりは少し積極的に、と言うよりはため らいが消えたという感じであった。 その中でただ一人、朔は特に驚く事もなかった、元旦に手伝いの際に聞いてしまっ た事と、去って行った後に姉のはじめから色々と言われていたからだ。 綾香は驚いてはいたが、同時にこの二人のやりとりにじれったさも感じていた。 彼女の知る限り、希亜は綾芽に対してはっきりとした事は何一つ言っていないのだ。 その点で言えば、少なくとも自分と悠朔とハイドラントの関係は、この二人よりは まだ近い位置にいると思えるからだ。 だが希亜ははっきりとは言わないだけでほぼ必ず行動には移していたと言えた。 ある意味に於いてただ自然に彼女のそばにいたとも言え、その点では綾芽の事を羨 ましいと思う事もあった。 とは言えこの二人、希亜だけに問題がある訳ではなかった。 綾芽自身の方はと言 えば、これはこれで相当に鈍いのである。 けっこう希亜の事が綾芽の口から出る事はあるのだが、小さな女の子が言う「ただ の男友達」、まるでそんな扱いなのである。 姉の芹香はそのことに対して何か分かっ た事があるようだが「時が解決してくれます」と慈しむような微笑を綾芽に向けなが ら言うものだから、それ以上聞く気になれなかった。 その時の事を思い出して呆れつつ、目の前のじれったい二人に対して少しの苛立ち を抱えていたからか、つい愚痴の一つがこぼれた。 「綾芽は、よく希亜と二人で一緒にいるけどどうして?」 「希亜君の事ちゃんと見てないと、悪い事するでしょ」 我ながら意地悪な質問だと思いつつ繰り出した質問だが、あっさりと予想通りに返 された。 「…あー、希亜あんなこと言われているけど良いの?」 「ま、問題ないかと」 達観したと言えば聞こえは良いが、何とも面白くない返答に綾香は抱えていた苛立 ちと共に業を煮やし口を開いた。 「希亜、この際はっきり言ったらどうなの?」 と、言ってからすぐに後悔する事はなかったが、若干の沈黙の間に二人の事に変に干 渉してしまうのも考え物かなと、少しばかり思うのだった。 「はっきりですか…」 そんな言葉を呟く希亜に、綾香の言葉と朔の言葉が返されるが、ハイドラントはそ の様子を昼のドラマを見るような心境で目の前のやりとりを聞いていた。 思わずというよりも、いつもののほほんとした表情で希亜が綾芽の方へ顔を向ける。 綾芽も希亜と彼女の言う両親の様子に思わず希亜の方を見返す。 膝の上のクラムの耳がピクンと二人へと向けられる。 ハイドラントはこの様子にこれは見物になると思い、とりあえず希亜が入れていた 玄米茶をすすろうとした。 「綾芽さん…」 希亜の言葉にハイドラントの視線も熱くなる。 「…ずっとそばにいさせて下さい…」 あまり面白くない言葉だなと客観的に判断したハイドラントはお茶をぐいっと口の 中へと運ぶ。 だが、希亜の言葉は続いた。 「…死が二人を分かつまで」 と。 「ぶーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」 ハイドラントは口の中のありったけのお茶を吹いていた。 視界が一瞬真っ白に染まり、なま暖かい液体が降りかかり気化熱でどんどん冷たく なって行くのが分かった希亜。 希亜の膝の上から逃げ出し、ハイドラントの吹いたお茶から逃れたクラム。 突然吹き出したハイドラントに、今まで真剣に聞いていた自分が思わず我に返った 綾芽。 「ハイド、良い所だったんだからそれはないでしょう!」 「まったくだ、せっかく面白い物が見えると思ったのに」 そんなブーイングをたれる綾香と朔。 「待てい! なぜ告白に「死が二人を分かつまで」が入るのだ!?」 思わず大きな声を上げるハイドラントの言葉は続く。 「普通そのフレーズは結婚式だろうが! 結婚式の神父がいう聖書の言葉だ!」 短いながらも怒号にまかせて熱弁をふるったのだが、ハイドラントも言ってて思わ ず気がついた。 「結婚式… 結婚式?」 最後に自問自答するようにそう呟いてハイドラントは希亜に頭を向ける。 「もしくはプロポーズだな」 朔の付け合わせるような言葉に綾芽は口をぱくぱくさせたままに視線を希亜に向け るが、当の彼女はまだ事態が飲み込めてはいなかった。 「そんなに綾芽の事が好きなんだ」 綾芽の耳にそんな綾香の声が入った、直後先ほどの希亜の言葉と、大晦日の晩に聞 いた言葉を思い出すや否や、ボンと音が出るような勢いで顔を真っ赤にして綾芽は声 を上げた。 「き、希亜君が好きな人って、わたしだったの!?」 本人は至ってまじめに驚いているのだが、思わず覗いた希亜はショックのためか 「るるる〜」とワカメ涙を流しており、途方にくれるように綾香達の方を見ると、苦 笑としかとれない表情の綾香、希亜に対して同情と言うより哀れみの視線を送ってい る朔、先ほど掘った墓穴であまり面白くないのか憮然としたハイドラントが見えた。 そこから少し離れた屋上のど真ん中。 「すごい事になってるね、電芹」 「私もこんな現場に遭遇するなんて思っても見ませんでした、たけるさん」 屋上のど真ん中になぜか立っている電柱、その物陰に隠れきれる訳もないのに、た けると電芹は電柱に隠れるようにしてこの現場にとけ込んでいた。 「どうしますか?」 「どうしますかって… 今入って行ったら、ねぇ」 「そうですね」 二人と一本の電柱はこっそりと逃げるようにその場から去って行く。 少なくとも 当人達にとってはであるが。 午後の授業中。 「お互いガチガチになってるね」 「綾芽さん弥雨那君の方にまったく振り向きませんね」 そんなたけると電芹の4つ前の席で、希亜と綾芽は隣り合って座っていた。 出来るだけ平然としようとつとめる希亜だが、綾芽に関係する色々な思考がゴチャ ゴチャに脳内を駆けめぐっていた。 自分を分析する、心拍がいつもより早いのが分かる。 気がつくとシャーペンを握っ ている手にはじっとりと汗をかいている。 授業にほとんど集中出来ない。 混乱と不安、同時に相手である綾芽も頻度や方向性の差はあれ、同じような心の揺 らぎを感じているのを、希亜は感じていた。 直後に脳裏に展開するそれに対する数々の対抗策と結果の推定。 種々の検討を崩壊させるように排除して、平常心を取り戻そうとするが、気付くと 再び頭の中は綾芽の事で占められていた。 そんな混乱のループに陥った希亜の中で、ただ一つだけ変わらず静かな思考があっ た。 いつもとは違うのだが、結果的にいつもと同じように隣に座って授業を受けている らしい希亜。 その希亜をまともに見る事が出来ない状態ではあったが、綾芽の思考は落ち着いて いた。 ふと、いつからこうなったのかを思い出す。 綾芽から見た希亜は、日常に溶け込んでいるはずなのに、違和感にも似たような、 どこかしら危うさを内包した存在だった、だが初めからそう思った訳ではなかった。 彼の第一印象は、のんびりとぼんやりとした男の子だった、同時に朔が「こっちが 間違いを犯さない限りは、信頼に値する」と評価した人物だった。 それが変わったのは、彼と話すようになってからだった。 また家に戻って綾香と芹香の三人で話したときに友人達の顔の話になり、話題がそ れぞれの瞳に触れた時、希亜だけではないのだが、三人共に抱いている印象が違って いた。 それぞれが希亜の瞳に対して持った印象は、見下ろす瞳、眠たげな瞳、見透かす瞳、 それが三人のそれぞれの印象を端的に表現した物だった。 芹香は希亜の瞳を俯瞰する物と位置づけ、綾香は彼の目を一見した大多数の意見を 反映するような回答を、綾芽は会話の節々から受ける、どこかしら相手を見透かした ような言葉からそう感じていた。 そこまで思考して、隣に座る希亜の方へ視線を向けようと思うと妙に心音が大きく 聞こえていた。 「あ、耳まで赤くなってる」 「…初々しいと言うんでしょうか?」 たけるの言葉に思わず疑問系で応えてしまう電芹。 「分からない、恋した事無いもん」 たけるの言葉に答える事を保留した電芹は、目の前の二人の様子を授業中である事 を考慮して、さり気なく観察を続けるのだった。 放課後。 「あ、綾芽さん」 思わずどもってしまう希亜の言葉が、今日最後の授業を終えて鞄に教科書を入れて いた綾芽に届く。 「何?」 少なくとも綾芽本人は、普通に対処したはずなのだが、傍目から見れば素っ気なく 言葉を返していた。 当の希亜はその様子に、綾芽がまだ混乱していると思いつつも言葉を続けた。 「いつまでも、待ってますから。 今日の返事を。 いつになっても」 人によっては女々しいと言うだろう、そんな思考が希亜の中にはあるが。 希亜は 今までずっと、今日中にここまで言わなければならない、そんな必要性を感じていた。 そしてそれを言ってしまった希亜は、思わず気が抜けてしまっていた。 だから綾芽が生返事を返しても、気に出来るほどの思考は残っていなかった。 「じゃあ、また明日」 そんな言葉もぎこちなく希亜に届けられ、綾芽は教室から出て行った。 「この後どうなるか楽しみだね電芹」 「興味深いですねたけるさん」 二人の視界には、先ほど教室から出ていった綾芽の背の陽炎を見るように、ぼんや りと出口を見ていた希亜の姿があった。 夕刻、リムジン車内。 「何かありましたか? うん、学校でちょっとね」 芹香の問いかけに綾芽の代わりに綾香が答えた。 先ほどから綾芽に向けられていた芹香の視線に、より濃厚に心配の色が宿る。 「あのね、 …希亜君に告白されたの…」 顔を赤くする訳でもなく、ただ困惑、そんな表情のままに綾芽はそのままうつむい てしまう。 「わたし、分からない。 希亜君の事嫌いじゃない、でも…」 綾芽が両親と慕う来栖川綾香と悠朔、それらに対する愛されたいという感情を内包 した好きとは、希亜に対する感情が違うことに薄々気づいてはいても、まだはっきり とは自覚できなかった。 綾芽自身、希亜のことが好きか嫌いかと問われたら、少なくとも好きととれる範疇 で答えただろう、今の混乱がなければだが… その事をおいても、綾芽にとって希亜は日常を共にする存在であり、「危ない事を しそうな気がするから」という理由付けで気になる存在だった。 もっとも、その理 由が愛情を渇望するが故の代償行動であることに気づいているのは、希亜と芹香だけ なのかもしれない。 夕刻、寮食堂。 「隣、よろしいでしょうか」 「! …あ、はい」 視界外で関知できなかったことに一瞬驚いた希亜だが、とりあえず返事を返した。 隣の席に電芹が座る。 「どうしたんですか?」 そう答える希亜だが、電芹が隣に座る理由に一つだけ心当たりがあった。 それは 先日の軍畑と希亜が話していた時に電芹の視線に気付き、その会話の内容が聞かれて いたのだろうと判断した希亜が、その後で電芹に持つ印象とHM等に持つ印象とを話 した事だった。 その事に対しての質問には特に問題なく答えられるはずだった。 「人を、異性を好きになるって、どんな感じですか?」 だから、そんな質問を受けた希亜の思考は。 止まった。 「あの、弥雨那さん?」 「あ〜の〜。 …てっきり私があなた方に対して持っている感情について聞かれるの だとばかり思ってたので〜」 ゆっくりと自身を再動させるような希亜の声が電芹に返る。 「電芹ー」 少し離れた所からたけるの声が届く、電芹は彼女の方に向くと軽く手を振り、 「こっちですたけるさん」 そんな電芹の様子に希亜は、これから二人から受けるだろう質疑に対して、どよー んと心に雨雲が垂れてくるのを感じていた。 とは言え希亜は適当にはぐらかすことなく、ただし綾芽に関わる部分は黙秘をして 答えてゆくのだった。 夜、寮の屋上。 「なぁ、何かあったのか?」 相当近くにいたのだが。 朔がそう訪ねるまで、かなりの時間を要した。 月明かりに照らされる中、マントを羽織りつばの広い帽子をかぶった人物が、備え 付けのベンチに腰掛けてどこか遠くを見ている様にも見えた。 背格好から朔はすぐにそれが希亜だと気付いたが、纏う雰囲気があまりにも暗いこ とに、声をかける事にためらいを覚えさせていた。 どよーんと暗い表情の希亜は、ずっと一人静かに良い香りのする酒を飲んでいた。 お猪口に注がれた琥珀色の液体を口に含むのではなく、一気に流し込んだ所でよう やく朔は声をかけていた。 こちらに気付いたのか、希亜の視線だけが朔に向けられる。 瞳は唾広の帽子の陰 に入ってしまい見えないが、視線が向けられたときの感覚で朔は判断していた。 いつもののほほんとした雰囲気は何処にもなく。 いつもはオブラートに包まれて いる悪寒が、まるでハリセンボンやミノカサゴのように朔の感覚に実体があるかのよ うにまとわりついて来るのを感じた。 別に命とか肉体的に危険という感覚ではなく、悪寒が凝縮し実体を持って迫ってく るような、そんな何か精神が搾取でもされるんじゃないかと、思考は警告を発しては いるのだが。 体は動かなかった。 無論別に恐怖に動かない訳ではない。 広義の恐怖には入るとしてもだ。 ただ、視線の先に酒に酔って赤い顔をした、希亜の碧眼が在っただけなのだ。 「どうです〜」 のんびりした言葉と共に、希亜は自分の物とは別のお猪口に酒を注ぎ、朔に差し出 す。 「ああ、もらおう」 流されるままお猪口を受け取り、香りを楽しむ。 極上と言えるその深く熟成された香りを中程に、口へと運んだ。 「あの人は、私もよく分からないところがあるんです」 朔が口へ喉へ、酒を流し込んでいる最中に希亜は口を開いた。 「あの人はもしかしたら、消えてしまうかもしれない、誰の前からも…」 「…ちょっと待て。 確認するが『あの人』っていうのは綾芽だな? それはどうい う意味だ?」 「あの人は、まだ生まれていません」 希亜の言葉に朔は、未来からやってきた綾香と朔の子供、綾芽の言った言葉を反芻 する。 「それで?」 「タイムパラドックス… そんな言葉なんて意味はないか、世界の力とでも言うので しょうか。 観測はしていませんが、そんなものがあるのなら、綾芽さんは整合性を 保つために消滅します」 「…それは杞憂に過ぎないんじゃないか?」 「私の想像上の中でも、最悪の事態の一つです。 前提条件は幾つもありますが、あ る一点のみの杞憂が正しければ、綾芽さんは消滅します、誰の記憶からも」 「その仮定が正しいのなら、大した問題ではないな。 記憶が失われてしまったのな ら、嘆く理由も無い。 無くした物に気付かない以上、それを探す事も無い。 客観 的に観測できない喪失を恐れる理由は……少なくとも俺には無い。 デジタルな意 見としては、な」 「そう? まだ言葉を残しているね?」 朔は肩を竦めた。 「残念ながら、人の心はアナログでできてる。 1でも0でも無い、当人さえも観測 できないノイズも混じる。 …これ以上言わせるな、無粋になる。 それにしても、 そんなあるか無いかもわからない思考に苦悩するほど、お前が綾芽の事を想っている とは気づかなかった。 だいぶ重症だな」 「自分でもかなり重症だと思いますよ。 …でもね、我が庇護内に無いとは言え、あ の人物は私の見ているものでもあるんですよ、当たり前です」 「…嘘だな、それはお前の思考の真実じゃない」 「ええ、違いますよ」 間髪入れずに返ってきた希亜の口調は、簡潔だった。 そして彼は短く言葉を続け た。 「私は、あの人と共に時を歩みたいのです」 朔にとって、ここまで物事をはっきりという希亜は別段珍しいものではなかった。 ただ彼にとって以外だと思ったのは、独占欲が感じられなかった事だろうか。 「…もし、もし綾芽がお前以外の人物を選んだとしたら、どうする?」 「その時はその時です。 それであの人が幸せになれるなら、私はかまいません」 「お前の想いはその程度なのか?」 「人によっては、そう見えるでしょう」 「…独占欲がないのか? お前は」 「ありますよ、でもそれを向けるわけには行かない」 「何故?」 「確実に私はあの人の心を破壊するでしょうから。 私はね、今はあの人の自由意志 を最大限に尊重している。 それにあの魔女の庇護下にいるから、私の影響は少ない んですよ」 「そんなはずはない」 「あなたの目にどう見えているかは知らない。 でもね、あの人が私の庇護下に入る ことと、ワタシが独占欲に沈むこと、両方が行われたら。 私はあの人の心を壊すで しょう」 「…そうなっても、そんな心配はしていない」 「何故?」 「お前を信じているからな」 「…あなたは ひどい人だ」 「誉め言葉と受け取っておこう」 「そうですか。 では、今宵はこれまでとしましょう…」 そう言って、ふよふよと夜の空の中へと飛んでいった希亜の背中を、朔はぼんやり と眺めた。 「お前から魔女を取っても、いろいろと残る物もあるんだがな。 だが俺だってお前 に精神的に色々搾取されるのはごめんだ。 お前が言ったんだぞ、『魔女には注意し なさい、特に取引となることは』ってな…」 呟いた所でふと、柄にもない事を言っていたのに気づいたのか、朔は視線を空から 手元の御猪口に落とした。 一口ほど口に含む、上質の味わいが強烈なアルコールと共に口の中へ広がる。 「珍しく酔うまで飲んだんだなあいつ」 屋上でよく酒をたしなむ希亜だが、実際酔うまで飲んだ事など見た事はなかった。 珍しい物を見たなと思いつつ、綾芽の事に思考を傾ける。 「あいつはともかく… 俺は綾芽に甘いかな」 御猪口に揺らぐ琥珀色の水面に、綾芽の姿が映ったような気がした朔だった。 そう高くない寮の上空、せいぜい200mだろうか。 その虚空の中で希亜はぼんやりと風に身を任せていた。 「悠朔さんには言う必要はないですね。 あなたが知りたいのなら、それはあなた自 身で気付かなければならないことなんですから」 普通の人間なら体験するであろう成長過程に、幾つかの欠落と、致命的な欠落があ ると希亜は綾芽の中に見ていた。 「もっと親に愛されることを、感じてください」 街の光の向こう、来栖川邸がある方向に希亜はぼんやりと呟く。 風が流れ始めた虚空の中、ぼんやりと呟く。 「押しつぶされないで、くださいね」 それは、杞憂かもしれない願い。 希亜にとっては、最悪を避けたいが為の想い。 「早すぎたんです、あの人の心はまだ幼い」 闇の中、虚空の中で、誰かに聞いて欲しいと、希亜は願った。 同夜、来栖川邸宅内、芹香の部屋。 「で、綾芽の様子どうだった姉さん」 部屋に戻ってきた芹香に綾香は開口一番にそう訪ねる。 「ママ…」 「あ、綾芽?」 芹香の後から部屋に入ってきた綾芽に綾香は驚いていた。 彼女はママと慕う人物 のそんな様相を見て一度視線を外すが、芹香を一度見て綾香の方へと向き直った。 「ねぇママ、人を好きになるってどう言うこと?」 「え…」 綾芽の言葉に、綾香は返す言葉に困った。 人生経験は綾芽に比べれば抱負だろう が、まだまだ若輩者の綾香にそんな問いが答えられるはずはなかった。 「ねぇ、ママ」 「私だって、そんなに経験無いんだけどね」 綾芽の頭にポンと綾香の手が置かれ、さわさわと頭をかき混ぜてゆく。 「綾芽の正直な気持ち、言葉に出来る?」 「ううん」 「じゃあそれでもいいわ、言葉にならなくても、希亜に全部ぶつけちゃえ」 「で、でも」 「大丈夫よ、あの朔でさえ信用しているんでしょ。 それに、ちゃんと見ておかない と後悔するわよ」 「後悔?」 「そう、ちゃんと綾芽の気持ちをぶつけておかないと、そしてあいつの事を見ておか ないと、なにするか分からないわよ」 「…うん、そうだよね。 ありがとうママ!」 綾芽は吹っ切れたのか、そう返事を返すと自分の部屋へと戻っていった。 芹香が戸を閉めると、綾香は無意識のうちに深くため息をついていた。 そんな様子を見ながら、芹香はゆっくりと綾香の前のソファに向かう。 「何よ姉さん、私に言えるのはあの位のことなんだからね」 「…羨ましいですか?」 「羨ましいか。 …それも少しはあるけど、微笑ましいかな、どっちかと言えば」 ゆっくりと姉、来栖川芹香が綾香の前のソファに腰掛ける。 「まあ、元はと言えば私がけしかけたんだけど。 ほら、あの二人って見てる分には お互いに青信号じゃない、しかも綾芽は本気で気付いてなかったし… だからじれっ たくなって」 「…希亜はずっと待っているつもりだった?」 「何を? ってまぁ、あの子ならやりかねないわね」 フルフル。 「…違う? 綾芽の心が育つのを待っていた?」 「どう言う事、姉さん」 「…自信はありませんが。 希亜は自分に向けられる視線が、綾香に向ける視線の陰 となっていることに気づいています?」 「なにそれ…」 「…あの子はあなた方を渇望してます、同時にその対衝動としてあの男の子を見てい る面があります…」 「じゃあ、希亜のことは好きでも何でもないってこと?」 「…もしかしたら、まだそこまで考える事はないのかもしれません…」 「なんで?、綾芽は普通の…」 子なのに、と言葉を続けようとした綾香の脳裏に、綾芽と初めて会いそして来栖川 家で預かる経緯がフラッシュバックする。 「…子じゃなかったわね」 言葉だけは紡いだ綾香だが、沈黙は重くのしかかった。 翌朝、校門付近。 「むぅ、落ち着かないぃ〜」 そんな事を言いながら、深くため息をついている希亜を、朔は楽しそうに眺めてい る。 朔にとって普段のほほんとしている希亜が、そんな風にそわそわしているのを新鮮 な感覚で物珍しそうに見ている。 無論希亜も朔がそんな風に自分を見ていることに 気付いてはいたが、綾芽の事で完全に手一杯になってしまった今、いつもののほほん とした毒舌でさっくりととどめを刺す余裕などあるはずもなく、ある意味一方的に見 せ物になっていた。 そして、その二人から離れた場所に、当人達にとってはこっそりと、他から見れば あからさまに目立った場所に忽然と電柱が立っており、その下に電芹とたけるはいた。 「そろそろ来る頃ではないでしょうか」 「どきどきしてきた」 車の窓からふと空を見上げる、どんよりと曇ったそれから、今、雪が降り始めた。 「降ってきましたな、今日は一日中雪だそうでございます」 「積もりそう?」 「はい、お嬢様。 予報では積もるとのことでした」 「ありがと」 もうじき車は学園に着く、気になった芹香が綾芽の方を向くと、彼女は綾香の肩を 枕に眠っていた。 「あ、うん。 そろそろ起こすわね」 芹香の視線に気付いたのか、それともただ恥ずかしかったのか、ともかくも綾香は 綾芽を起こしにかかる。 「綾芽、そろそろ着くわよ」 「ふぁーぃ、おきるぅ」 まだ眠そうにそう返事を返しながら目をこする綾芽、窓の外にはもうじき校門が見 えて来ようとしていた。 昨夜遅くまで眠れなかったらしく、目をこすりながら綾芽が車を降りた。 「おはよう…、眠そうですねぇ」 未だ睡眠を欲している綾芽の頭に、聞き慣れた声が入って来た。 「よく眠れなかったらしくて」 隣に立っている綾香がそう弁解している。 「今日は、休講はないですよ。 …綾芽さん起きてます?」 綾芽にとって聞き慣れた希亜の声が、そう呼びかけている。 いつものように挨拶 を返そうとしてはいたが、何故か言葉にするのはためらわれた。 「ごめんね希亜、綾芽をお願い」 未だに眠そうに見える綾芽の様子に綾香はそう言い、もう一度綾芽に起きるように 促すが、当の綾芽は相変わらず眠そうにしている。 「しょうがないですねぇ」 希亜はそう苦笑して言葉を続けた。 「ほらほら、お姉さんがそんな眠そうにしてたらだめじゃないですか」 「んー、希亜君のせいだよ。 希亜君が悪いんだから」 「ええ」 「どうして、そんな風に何もかも分かったような事言うの!?」 「私が未熟だからです」 あっさりと、簡潔に答えた希亜に対して綾芽は、その眠そうに充血した目を見開き、 真っ直ぐに綾芽を見つめる希亜の視線にあわせた。 「希亜君が悪いんだからね」 「…」 「なんで、希亜君のこと考えて眠れない夜を過ごさないといけないの?」 「どうして、希亜君に話そうとすると、何も浮かばないの?」 「どうして…」 希亜は綾芽の様子がおかしいのに気付いたが、次の瞬間綾芽は低い声で言った「も う、怒ったんだからぁ」と。 「綾芽さん」 柔らかく呼びかける希亜の声に、綾芽は何処からともなく長刀を取り出し、切っ先 を迷うことなく希亜に向けた。 「…危ないですよ」 希亜はのほほんとそう言い、綾芽に近づいてゆく。 近づいてくる希亜の喉元へと、綾芽は切っ先を向ける。 「わたし、本気だからね!」 そう綾芽が言った直後、希亜の左手が伸び綾芽の長刀の刃を握りしめた。 「っ!?」 幾人かの息をのむ音の中。 刃が肉に食い込む感触が、肉を刃が貫く感触が、お互いの脳に到達する。 「よく手入れをしていますねぇ」 のほほんとした音で紡ぎ出される、揺動を感じさせない声が広がる。 向けられた切っ先から刃がそれないように、希亜は片手でその刃をしっかりと握り しめていた。 程なく握られた手のひらと刃の間から赤い液体がじわじわと沸き出す。 希亜自身最もその様子を分かっていながら、そこから与えられる感覚を無視する、 そうしないとパニックに陥りそうだったから。 「動いたら、切り落としてしまいますよ」 綾芽の膝が、腕が震える、少しでも力を加えたら、希亜の指を切り落としてしまう。 希亜の後ろにいた朔にもそれが分かっていたが、手を出せば不意に切り落とさせて しまうのではないかと、戸惑わせる。 「例え刃物のような言葉で話すとしても、刃物を持ち出してはいけませんよぉ」 のほほんとした言葉が、静に紡ぎ出された。 「分かりましたね?」 「分かった、分かったからぁ」 震える声を上げる綾芽に、希亜はいつも通りののほほんとしたままに言葉を続けた。 「そうですか… んでは。 ゆっくりと大きく息を吸って、はいて… もう一度」 希亜に言われるままに綾芽は深呼吸を繰り返す。 「こ、これでいい?」 「ええ、少しは落ち着きましたね」 「で、でも希亜君、手…」 「言わないでください、痛いんですから」 そう言った直後、希亜の表情が痛みに歪む。 「やせ我慢も、限度はあるみたいでぇ」 相変わらず口調はのほほんとしたものだが、言葉の節々には全く余裕はなかった。 「今、放しますね」 握ったままの手を、もう一方の手でそっと、一本一本極度の緊張と痛みで硬直して しまった指をゆっくりと動かして、希亜は血にまみれた手を綾芽の長刀の鋭い刃から 引き剥がした。 「長刀はもう少しそのままで、お願いしますね」 そう言って希亜は未だに血が流れている手を、長刀の刃の峰の部分に触れさせ、短 く呪文を呟いた。 日本語でも英語でもない音節が、静かに流れてゆく。 「もういい?」 呪文の詠唱が終わったのを見た綾芽希亜に恐る恐る問いかける。 「はい、大丈夫ですよ」 そう言って希亜はダラリと手をおろした。 「う、うん」 ぎこちなく返事を返し、長刀を何処へともなくなおした綾芽はすぐさま、 「希亜君、血! 保健室に行かなきゃ!」 そう慌てる綾芽だが、希亜は全く反応せず、そのままの状態で微動だにせず立って いた。 のほほんとした、いつものぼんやりと見透かすような、とも言える視線も全く焦点 が合っていない。 「希亜、君? ねぇ!」 不思議に思った綾芽が希亜に呼びかけるが、希亜からの返事はなかった。 傍らの地面には、希亜の手からあふれ出る血が、酷くゆっくりと地面に赤い班点を 描いてゆく。 「ちょっと、希亜君! そのままにしてたらだめだよ」 と、綾芽が希亜の肩に触れると、彼の上体がふらりと崩れた。 綾芽が声を上げる間に、希亜の体はゆっくりと、まるで宇宙遊泳でもするように後 ろへと倒れてゆく。 重力を無視した落下速度の遅さに、呆気にとられた一同の中、いち早く朔が我に返 り希亜を受け止めた。 「気絶しているな、ショックかどうか分からんが、このまま保健室に連れて行く」 希亜を一瞥して簡潔にそう述べると、朔はそのまま保健室へと希亜を抱えて早足で 歩き出した。 傍らの不自然にそびえる電柱の影。 「電芹、すごい物見ちゃったね」 「そうですね、どうして弥雨那さんはあんな事をしたのでしょう」 べつに学園で怪我をするのを見るのが珍しいことではない、戦闘や喧嘩の果てに負 傷するのは、やはりそうまで珍しいことではない。 ただ今回の場合は、戦闘や喧嘩の結果ではなく負傷した、見方によっては希亜が自 分で傷つけた訳だが、少なくとも今回のようなケースは学園でも珍しいと言えた。 「分からないよ。 人を好きになるって、あんな怖いことも出来ちゃうのかな」 先日希亜に根ほり葉ほり聞いた、綾芽との事を思い出したたけるの言葉に電芹は返 す。 「かもしれませんが、それは弥雨那さんの性格によるところが大きいのではと」 「そっか…」 お互いに、もし自分だったらどうするのか。 そんな事を二人は考えていた。 第二保健室。 運び込まれた希亜は、すぐさま縫合手術を受け、今はベッドに横になっていた。 「見た目は派手だけど、それほど出血はひどくないし、縫合も済ませたから、当面は 抜糸まで安静にする事ね」 「ありがとう石原先生」 「それにしても、ずいぶん鋭い刃で切られたわね」 「いや、そいつが掴んだんだ」 「冗談を言わないで、自分で傷つけた物ならもっと浅いわよ」 「嘘じゃない、希亜君が掴んだの」 「…全く、冗談じゃないわ」 保健室のベッドの上に希亜は寝かされていた、その手にギブスを付けられて。 今は眠っている、縫合手術の前に暴れると危ないからとかめんどくさいから等と言っ て、全身麻酔をかけられてそのまま眠っている。 「それだけ…」 必死だった、朔はそう言おうとして言葉が止まった。 昨夜の希亜の姿を思い出し たからだ。 黙した朔に綾芽が問いかける。 「どうして、こんな事出来たのかなパパ」 「…少なくとも根性を見せるためじゃないな、こいつはそんな奴じゃない」 「答えてくれないんだ」 「綾香に何か言われたのか?」 「ママは、希亜君に何でも良いから一度思っている事をぶつけてごらんって言われて る」 「そうだな、それが良い。 誰かの言葉だが、言葉だけでは伝わらない、だが、言葉 無くしては何も伝わらない。 とにかくよく話してみることだ」 「うん」 「こいつの事、好きか?」 「分からない。 でも、嫌いじゃない」 「なら、それでいいさ。 こいつは待つと言ったんだ、待たせればいい」 「好きになるまで?」 「いや、少なくとも子供でなくなるまで、だな」 「…わたしまだ子供なんだ」 「こいつもお前も、まだまだ子供だ、俺だって人のことは言えない。 だが、さしあ たって綾芽は希亜より子供でなければいい。 …俺に言える言葉はこのくらいだ」 泣いている彼がいる、よく晴れた空の下で、なりふり構わず泣いている自分がいる。 自分以外の全てが彼女を忘れてしまった世界で。 泣いている彼女がいる、雪の降りしきる空の下で、傘を差したまま墓前で。 自分を最もよく見ていた彼を、殺してしまったことに後悔をして。 鳴いている一匹の猫がいる、遙か彼方に下界を見下ろす空のかなたで。 この空に融けながら、もう叶うことのない望郷の念を捨てきれずに。 心の中に恐れを感じつつ、心地よい闇の中で希亜の意識が夢から覚める。 見ていた夢は記憶から失せ、静かに増えてくる五感からの情報に身を任せる。 光が、匂いが、温度が、いつもよりぼやけている五感に広がってゆく。 胸の上に何かがいる、ここではない空のかけらを内包した存在。 それが子猫クラ ムだと分かると、希亜は安心してぼやけたままの五感にまどろむように、再び沈み込 むように身を任せた。 放課後、第二保健室。 「まだ寝てるわよ、彼」 入って来た綾芽に、保険医の相田響子はそう返した。 「石原先生は?」 「あの人なら今、第一に行っているわ」 「そうですか」 そう返事を返しつつ、綾芽は希亜が寝ているだろう寝台のある方へと視線を向けて いた。 気付いてから暴れないためとはいえ、全身麻酔があだとなった。 麻酔が切れても 寝ている典型的な例である希亜に、やや呆れながらではあるが。 「麻酔は切れてるから、起きたら分かるはずだけどね」 そう言って相田響子はカーテンをスライドさせ、横になってる希亜の姿を見る。 「あ、クラム」 「この子猫、さっきからずっとそこに居座ってね、主人を守っているみたいなんだけ ど…」 二人の方を見ることもなく、クラムはふわふわの体毛のまま希亜の胸の上に丸まっ ている。 「希亜君…」 綾芽が希亜に近づくと、クラムのシッポがピンと立った。 そのまま頭を持ち上げ 「なー」と一鳴きし、その視線を綾芽に向けた。 鳴き声に思わず視線を合わせてしまった綾芽、希亜の瞳で見透かされるのとはまた 異質な感覚を受けるが、すぐにクラムは視線を逸らし、頭をおろしてそのまま丸まっ た。 「どうやら、近づいても良いみたいよ。 私の時はそのまま近寄らせてくれなくてね」 「クラムちゃん、ありがとう」 綾芽の声にクラムはシッポを立てて一振りし、再びシッポを丸める。 「良い猫ね」 そう言って響子は自分のデスクに戻り、そのいすに軽く腰掛けて二人の様子を見よ うとした。 だが不意に手を伸ばしたカップのコーヒーが空になっているのに気付き、 再び立ち上がってコーヒーメーカーを操作するのだった。 静かに寝息を立てて眠っている希亜の表情は、いつもののほほんとした様子に近い 物の、それよりはよりあどけなさが強く現れていた。 「わたし、希亜君のああ言うところが怖い」 そう言って、綾芽は希亜の寝ているベッドに腰掛ける。 「どうしてあんな危ない事が平気で出来るの?」 寝ている希亜が返事を返す事を、どこかで期待したのか、綾芽は言葉を続けるのだっ た。 意識ではなく、その意識が認識する空間の底の方から声が聞こえる。 聞き慣れているはずなのに、ひどく懐かしいその声は、希亜自身に対して問いかけ ていた。 その事に注意を向けると同時に、まどろみに沈んでいた五感が覚醒を始める。 意識に届いた瞬間から、誰の声、誰の息づかいかが理解できていた。 「…わたしには希亜君がわたしのこと好きだって理解できない」 そう呟いてから、ようやくこの部屋にもう一人の人物、相田響子がいる事を思い出 し、恥ずかしくて言葉が止まった。 カーテン越しの窓の外にある運動場からは、どこかの運動部のランニングのかけ声 が、酷く遠くに聞こえている。 「私が悪かったんです」 すぐさまでないが、希亜はベッドの上で横になったまま言葉を返した。 「お、起きてたの!?」 「今、起きるところです。 まどろみの中で声が聞こえました、いつも聞いているは ずなのに、その声はひどく懐かしい物に感じました」 希亜は、酷く遠くに相手がいるようにそう言いながら上体を起こし、視線を合わせ た。 「とりあえず、混乱させたのは未熟な私の失態です」 そう言って希亜は綾芽に深く頭を下げる。 「そんな事無い、わたし私が勝手に怒ったのが悪かったの」 慌てる綾芽に、希亜は頭を上げいつも通りののほほんとした視線で綾芽を見据える。 「…よければ、話してもらえますか?」 「うん。 昨日の夜、ママや芹香さんに相談したら『想いをぶつけてごらん』って言 われて、気がついたら一晩考え込んでて。 朝希亜君の顔見て考えてた事を言おうと 思ったら、急に腹が立ってきて… それで…」 「何故怒ったのかは聞きませんよ、私も昨晩は荒れてましたから」 「そうなの?」 「ええ、ちょっと酒量を間違えました」 「希亜君?」 「はい」 「お酒は二十歳になってからだよ」 「…まぁ、私はお前さんのそう言うところも、危ないところも含めて好きなんですけ どね」 「どうして、そう言いきれるの?」 不意打ちとも言える希亜の言葉だったが、それに動揺する前に綾芽の口は動いてい た。 「そうですねぇ」 希亜は一度視線を膝の上のクラムに向け、答える。 「酷く言えば、私はあなたの全てが欲しい、あなたの微笑みも、あなたの絶望も、全 てを。 でもあなたから全てを奪ったら、あなたではなくなる。 だからあなたの側 にいたい、側にいてあなたの存在を感じていたい。 でも、私にはあなたを守る力はありません、せいぜいあなたと共に戦うことが出来 る程度です。 …こんなところで答えになるでしょうか」 「それじゃあ分からないよ」 「ええ、はっきりとは分かりませんね。 でも、人を好きになるなんてそんな物です よ」 「そうなのかな?」 「そんなもんだと思ってます」 「わたしは希亜君の事、時々怖いって思う。 さっきみたいな事、平気でするんだも ん」 「平気じゃないです、あの時は魔法を使う以上に精神を制御するんですから。 手だっ て切れば痛いんですよ」 「じゃあ、どうしてそんなことが出来るの?」 「さっき言ったとおりです。 あなたが好きだから、あなたと共に戦うことは出来る からですよ。 だから手の痛みだって我慢できるし、あなたに指を切り落とされるこ とだって諦められます」 「そんなのだめだよ、わたし希亜君のこと傷つけたくない!」 一瞬、きょとんとしたような表情を見せる希亜だが、次の瞬間微笑みながら静かに 口を開いた。 「それは、お互い様です」 「え?」 「じゃあ何で? どうして?」 「あの時の綾芽さんは錯乱してました。 だからさらに大きな精神的ショックを与え て、錯乱した状態を一つの事象に絞り込ませたんです。 そうやってお前さんの心を 冷やして落ち着かせたわけです」 「じゃあ希亜君は…」 綾芽の言葉が止まった、その直後希亜のギプスで固められた手が、綾芽の手の上に 載せられる。 「ちゃんと面倒見てくださいね、お姉さん」 「うっ…」 夜の帳が降りる中、寮管理人室から大声が聞こえてくる。 「このどあほうっ! なに怪我しとんねん。 しかも自分から刃物握ったってどうい う事やねん!」 「猪名川さん」 「結花は黙っといてんか! このアホにはきつーく言って聞かせな分からんのや! ええか希亜、ウチはあんたのねーさんのアっちゃんからよろしく言われてるのは知 っとるやろ…」 結花はとどまることを知らない猪名川の説教に「ほどほどにね」とやんわりと言っ て管理人室から出た。 主に仕事上とはいえ、猪名川の性格を少なからず知っているからこそ、彼女が同人 誌以外でそう理不尽に怒ることはないと知っているからでもあった。 やや後ろめたい気分で管理棟から出た結花の目の前に、健太郎の姿が目に入る。 彼が結花に気付くと不思議そうに訪ねてきた。 「結花、猪名川さん怒鳴りあげてるけどどうしたんだ?」 「希亜君が怪我したんだけどね?」 「希亜が?」 「うん、あたしは直接見てないんだけど。 なんでも朝校門で彼女と口論になって、 彼女が怒っちゃったのよ。 それでその彼女が長刀を希亜に突きつけたんだけど…」 「切られたのか?」 「ううん、希亜君がその切っ先を掴んだんだって」 「掴んだ!?」 「うん」 「無茶するなー」 「だから、猪名川さん怒っているんだと思う」 二人の会話がとぎれた間にも、猪名川の説教が聞こえてくる。 「ま、帰ろうか」 「うん」 健太郎も今の猪名川に何を言っても無駄だろうとあきらめ、二人は寮を後にするの だった。 夜、来栖川邸、綾香の部屋。 「ふーん」 「『ふーん』じゃないよママ」 「ごめんね綾芽。 でも、綾芽ってずっと振り回されれっぱなしね」 「うん、ちょっと悔しい。 いつも希亜君の前ではお姉さんで居ようと思ってるのに、 気がついたらわたし希亜君に面倒見られてるんだもん」 「でも、綾芽がそうやって面倒見たいって思ったのは、同学年じゃ希亜くらいよね?」 「うん、だってかわいいんだもん」 そう言った綾芽の会心の笑みに、綾香は昨日の姉の言葉を思い出しつつ、かなり希 亜に同情するのだった。 同刻、寮の屋上。 街の仄かな明かりと、明るい月の光の下。 いつものベンチに座って希亜はぼんや りと酒を飲んでいた。 「こんばんわ、今宵も来ましたね」 「隣良いか?」 「無論」 「さっきは災難だったな」 「猪名川さんのことですか? それなら自業自得ですから」 「そうか。 さて、何から聞こうか…」 そう言いかけて朔は希亜の様子を見る。 膝の上に例の子猫が丸くなっている、いつもの魔女の正装ではなく、背中で大きく 割れた濃紺のマントも帽子もかぶっておらず、どてらを羽織っている。 そしてにやけている訳でもないが、その表情からは笑み以外の何物にも見えなかっ た。 「今日は上機嫌だな」 「ええ、良い物も見えましたから」 「良い物?」 「ええ」 上機嫌でお猪口の中の酒に口付ける希亜は、顔を赤くして戸惑う綾芽の姿を思い出 しつつ、ぼんやりと口の中の酒の味を堪能するのだった。 「そうか」 「どうです? おひとつ」 「貰おう」 月明かりに照らされ、二人の影はぼんやりと屋上に伸びている。 「手は大丈夫か?」 「まだ痛みますね、明日にでも五月雨堂に行って見る予定です」 「そうか …治るのか?」 「治さないといけません」 「そうか」 朔はそう呟くように言い捨て、再びお猪口の中の琥珀色の液体を口の中へと含む。 「質問は良いんですか?」 「もう答えはもらった」 「それは残念」 そうは言っても、朔の視界に在る希亜は、ぼんやりと幸せそうな笑みを浮かべてい た。 深夜、寮、軍畑&希亜の部屋。 既に丑三つ時であり、希亜と軍畑の寝息と、時計の針の音だけが部屋の中に広がっ ていた。 そんな静けさの中、カーテン越しに入ってくる月の光を受けて、そのやや青みがかっ たグレーの毛並みを持つ子猫が、シッポをゆらゆらと揺らしながら起きあがった。 とてててて、たっ… ぽふっ。 とてとて。 二段ベッドの上で掛け布団をかぶったままに、漂うように宙に浮いたまま寝ている 希亜。 その体の上に子猫クラムは軽々と飛び上がり、希亜のおなかの上で再び丸く なった。 そうして、部屋は再び元の静けさを取り戻すのだった。