彼女が振り向いたとき、一陣の風がその横をすり抜けていった。 耳元をそよいでゆくその音に、やや憂鬱そうな表情を浮かべる。 賛美歌に聞こえた。 「高橋いいぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっっ!」 風見の血を吐くような叫びと同時に、男の手から熱光波が放たれる。 その場に居合わせた一同は金属がひしゃげるような鈍い音を聞き、愕然とした。 彼らの目の前ではありうべからざる出来事が起こっていた。 マールは四肢をもぎ取られ、床に転がっている。 ティーナの全身は真っ黒に焼き焦がされ、行動を停止してしまった。 そして、ルーティは今の高橋の攻撃によって胴を吹き飛ばされ、スパークをあげながら ゆっくりと倒れる。 倫理教師、そして高橋教室の生き残り緒方英二。 彼は蒼白になった頬をひきつらせ、かつての師を見た。 「マルティーナを…破壊しただと?強化人間プロセスと来栖川HM技術の結晶……究極の 機体を……あなた風情が……?」 美加香はぺたんと床にへたりこみ、焦点の合わない目でただその光景を眺めている。 こんなことがあるわけがない。 低位の魔法存在でしかない高橋が何故マルティーナを破壊できるのだ? マルティーナは魔法世界レザムヘイムそのものと等価の魔力を潜在しているはずだった のに。 高橋はそんな美加香の考えを見透かしたように、嘲笑を顔に張り付かせながら言った。 「所詮は三分の一だろうが……それに、ちっぽけな魔法界ごときの魔力では俺は倒せんよ」 (ぬっ……) 「ぬかせえええええええええええっ!」 英二のその叫びを発動キーとして、衝撃波が高橋に迫る。 魔術常識を越えた範囲を持つ英二の攻撃に、高橋は大きく吹っ飛ばされる。 誰よりも強くそのシーンを意識していた英二が一番対応が遅れた。 高橋はそれを右手一つで「受け止める」と、強く握った。 衝撃の膜はあっけなくつぶれ、勢いいい音を立てて霧消する。 「効かんな」 それがカウンターだった。 白色の光条が英二に迫る。 高密度のエネルギーを秘めたその一撃は英二を飲み込まんばかりに英二の瞳の中を満た してゆく。 死への恐怖が英二を支配しかけたとき、横からぽつりと声が聞こえてきた。 「下がって下さい」 黒い甲冑を纏った戦乙女がランスを構えて光条に突っ込んでゆくところだった。 振り返れば、美術教師飯塚弥生が静かな怒りを湛えた眼で高橋を睨んでいた。 「許さない……あなたのしたことは、絶対に」 「裏切るか、飯塚弥生」 そんな声がいずこからか聞こえてきた。 しかし弥生は表情をぴくりとも動かさず、戦乙女のコントロールに集中した。 「………もとからあなたに魂を捧げたわけではありません」 戦乙女は輝くランスを手に、光条を打ち払うべく力を込めた。 そして砕け散る鎧。 それから掻き消えるように消えてしまった戦乙女を目の前にして、弥生は呆然としてい た。戦乙女は消えた。この世界から、消滅させられてしまった。 「ならば後悔させてやろう」 ハイドラントはそう呟きながら、すたんと地面に降り立った。 どこから落ちてきたのか。ここは屋上だというのに。 空間を引き裂いたハイドラントは、冷徹な目で弥生を見た。 「もはや誰も勝てないのだ、高橋教師には。何故ならこの男は……」 「サイレンの叫びよ!」 遮るように英二の衝撃波がハイドラントに襲いかかる。 話を中断されたハイドラントは、軽く眉をしかめるとぼそりと呟いた。 「ガディムの呼び声」 ブラストボイスが英二の衝撃波を相殺する。 空間自体を振るわせて、魔術によって生まれた衝撃波は消えた。 「くだらない攻撃で俺の話を邪魔しないで貰いたい」 その言葉からは自身への溢れる自信と超越してしまった者の余裕が感じられた。 そしてそれは圧倒的な実力の差を知らせるものをも、内包していた。 「今となっては俺と高橋は無敵。……パワーソースが近くにあるのでな」 その視線はまっすぐ風見に向けられていた。 言葉の意味に気付いた幾人かが特別な視線を風見に注ぐ。 だが、風見本人は顔を伏せ立ちつくしているだけだった。 「まさか……まさか、ハイドラント……あなた達は………」負傷した光が苦痛をこらえつ つハイドラントを睨み付ける。 彼は悠然と頷くと、薄く笑った。 「高橋を殺せる奴はたった一人だけ。こいつに力を与えた、あの方だけなんだよ」 今度こそ全員が気付いた。 一年前に「事故死」したはずの高橋を蘇らせ、圧倒的な魔力を与えた者。 それは、他ならぬ………………………。 「風見、やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」 西山の制止の声が飛ぶ。 だがもう全ては遅かったのだ。 風見の心の中をただ一人の男だけが埋め尽くした。 この世でもっとも憎い男だ。 文字通り命も惜しくないほど大事な娘達を無造作に殺してしまった奴。 殺してやる。 殺し返してやる。息の根を止めてやる。 もし、それが自分に出来ないのならば自分など必要ない。 人間などやめてくれよう。 高橋が何かを蹴り飛ばした。 足下に転がってくる。 風見は目を向けた。 娘達の首。 訴えかけるように開かれたその眼に、風見の最後の理性は吹き飛んだ。 意識の殻から伸びた己の指が掴んだのは一枚の薄っぺらい紙だった。 それは悪魔との契約書。 風見はにたりと笑うと、それに殴るようにサインをした。 「いいとも、食らえ。僕を食らいつくしてしまえ。そして、あいつを殺してくれ!」 全ての「存在」を魔王にくれてしまった風見は、死の直前に悟った。 狂気とは破滅ではなく、解放されることなのだと。 そして魔王は降臨した。 日陰は焦土と化した校庭にただ一人佇んでいた。 着ている制服はすでに煤や、血や、その他色々な汚物で真っ黒に汚れている。 その中にあってなお日陰の髪はつやつやと輝いていたし、突然に備えた神々しい神性は 余計に美しく映えていた。 辺りには生徒達の遺体が無数に転がっている。 名もなき一般生徒達から、彼女に挑戦を挑んだss使い達まで。 今彼女が打ち倒したばかりの遺体もある。 柏木耕一と呼ばれた男のものであった。 図書館に立てこもっていた生徒達も図書館自体の瓦解と共にちりぢりになった。 中には地下に潜った者たちもいたがそれはダーク十三使徒達の手によって最早全滅して しまったようだった。 ゆっくりと彼女は歩き出した。 おぼつかない足取りでふらふらと進んでゆく。 それは自分のした行動に酔うというよりは悪夢の中をさまよっているようだった。 耳障りな音が微かに聞こえた。 日陰はゆっくりと音の元へと近付いてゆく。 そこには教室に備え付けになっていたはずのTVがあった。 砂嵐がそのブラウン管の中を渦巻いている。 もうTVというものも映ることはない。 当たり前だ。 TV局などもうこの世界にはない。 外の世界ごと滅ぼしてしまった。 はっきり言ってしまえば、もうこの世界にはこの場所しか残ってはいない。 かつて試立Leaf学園と呼ばれていたこの数キロ四方だけだ。 見上げれば、夕焼け空に満月が見える。 だがあそこに行くことは出来ない。 何故ならあの場所は存在していないからだ。 確かにここからは外の世界が見える。 だがそれはいわば過去の残像だ。 世界はこの数キロを残して完全に滅びた。あの太陽も月も星も空も全てはもう本体がな い。ここをカッターで切り取ったように周りには虚無の世界が広がるばかりだ。 彼女はぱちんと指を鳴らした。 とたんに、TVはこの世界から消滅した。 あと少しで世界を滅ぼすことが出来る。 生きている者がただ一人もいなくなったとき、彼女の役目が終わる。 後何人が残っているのだろう。 虫や微生物さえもういない。 この世界に残るのは人間だけだ。それも力を持った者たちのみ。 「見つけましたよ、風上日陰」 日陰はぼんやりとそちらに目を向けた。 見覚えのある男が立っている。 何という名前だったか。 「あなたをずいぶんと捜しました。本来なら僕が止めるはずだったのです」 ああ、そうだ。思い出した。 「あたしだって捜したわよ、岩下。あたしに真っ先に殺される約束をしてたくせに」 岩下の顔が引き締まった。 日陰の冗談に構うことなく、その力を解放し始める。 魔王オロチの邪気が周囲に満ちてゆく。 そう、異なる意味での「魔王」。 絶対の「破壊者」である日陰とは別に、全てに苦痛を与えるものとしての「魔王」。 本質的に異なる存在でありながら、強力な力を持つという一点で共通する者。 「さあ、殺してやるぜ魔王っ!」 その叫びに日陰は泣きそうな笑みを浮かべた。 「そう…あなたが殺してくれるの?」 オロチの精神の欠片まで消し尽くした。 肉体が塵となり崩れてゆき、学ランが土の上に落ちる。 かつん、という音。 日陰は近寄ってそのポケットを探ってみた。 そこにはひびの入った眼鏡と、一枚の写真があった。 眼鏡の持ち主と岩下との幸せそうなひとときの写真。 幸せそうな笑顔が日陰には眩しかった。 日陰は肩を振るわせながら、それをかき消した。 さらに歩いてゆく。 何人殺したんだろう。 中にはかつての大能力者だっていた。 天才月島拓也。エルクゥ同盟リーダージン・ジャザム。その宿命のライバルセリス。学 園最高の戦闘能力を持つ機体Dシリーズ。購買部部長beaker。 最高権力の座につきながら隠遁生活を選んだ久々野彰は覚醒した直後に自ら消えた。ま るでこんな世界に用はないと言わんばかりに。 天才狂科学者柳川、鬼姫柏木千鶴、最大の黒幕セバスチャン、魔力を持つ猫エーデルハ イド、最大の武闘家の亡霊Tas、SS不敗流最後の弟子悠朔、美貌の天才鈴木静。 西山英志、結城光、赤十字美加香、緒方英二は魔王降臨の際に行方知れずとなった。 剣士佐藤昌人、きたみちもどる、強化人間シリーズ達。 ダウアーセリオが転がっているのを見て、すぐさま消してやったこともある。 あと、何人残っているのだろう。 また一人消えていった。 最後の最後で裏切った男、葛田玖逗夜。 日陰はただ歩き続ける。 最後の一人に巡り会うまで。 日陰はぴたりと足を止めた。 「何をしているの?」 木の枝と縄で作られた十字の前にしゃがみ込んでいた少女に声を掛ける。 美加香はゆっくりと安らいだ眼で日陰を見た。 「墓守をしているんです」 「はかもり?」 その身体をどかして、後ろを示してみせる。 「ええ。女神になり損ねた子供達のお墓です」 三つの十字が地面に突き立っていた。 そして、その真下の土は掘り返した跡があった。 それがマルティーナと呼ばれていた者たちの墓であることは疑いなかった。 美加香は微かに笑うと、遠い眼をした。 「私は神様を作りたかったんです」 「不遜ね」 日陰の容赦ない評価に、美加香は頷く。 「科学者として…魔術士として…どうしても作ってみたかった。人を越える神様の卵を」 美加香はそう言ってから、日陰を見た。 「でも駄目でした。私は運命に勝てなかった。魔王はしっかりと降臨して世界を滅ぼしに 来たんですね」 日陰は何も答えなかった。 しばし美加香は俯き、なにやら思案しているようだった。 静止した空気の中にただ二人だけがいる。 やがて美加香は顔を上げた。 「日陰さん、私達を消して下さい」 きっぱりとした口調だった。 「私と、その子供達の欠片を消してしまって下さい…いえ」 なにやら言いかけた日陰の口を封じるようにして、美加香は言った。 「私達に安息を与えて下さい」 もう何も言うことはなかった。 日陰は何故かどうしようもなくやるせない気分の内に、美加香とその後ろの墓を無に同 化させた。 そして日陰の前にルーンが現れた。 日陰は言葉もなく彼を見つめる。 「こんなはずじゃなかったんだよ」そうルーンは言った。 不思議そうに日陰はルーンを見つめた。 ルーンは頭を掻くと、コートの前を合わせてみた。 若干の間の後でルーンは繰り返した。「こんなはずじゃなかった」 「でもこれは決まっていたことです。あたしがこの世界を破壊してしまうことは……」 「だから、こんなはずじゃなかったのさ」 被せるようにルーンは言った。 「何で魔王なんか出てきたんだろうね?本来は破壊者は今来るはずじゃなかったのに」 日陰は返答のしようもなかった。 ルーンはまた一つこんなはずじゃなかった、と呟くと憂鬱そうに日陰を眺めた。 「みんなの心がこの学園から離れたとき学園を破壊する……それが正しいありかただった んだ。すくなくとも俺はそうであることを望んでいたし……」 そこまで言って、ルーンは頭を振った。 やめよう、と彼は呟いてどこか諦めたような眼で日陰を見た。 「さあ、俺を消してくれ。もう意味のない命だ」 釈然としないまま、日陰は彼を消した。 あと少し。 全てが終わるまであと少し。 日陰は中庭まで来て、破壊された像の前に座り込んだ。 確かそこには天使の像があったはずだ。 この学校の創始者はそういう意味のないものを好む人物だった。 彼は皮肉を込めて天使像を設置したに違いない。 神がもしいるのなら、エルクゥの存在を否定してみるがよい。 その心の痛みが今の日陰にはよく分かった。 (あたしもまた……自分を否定したいんでしょうね) 彼女には分からないのだ。 自分が何なのかではなく、自分は何であるべきなのか。 「あたしがここにいるのは……全てに忌み嫌われる悪の象徴として?それとも、ただの少 女として?」 「決まっているだろう」 これもまた、聞き慣れた声。 血塗られた鎌を背負った男が歩み寄ってきていた。 「全てを混沌の海から解放する救済者としてだ」 マスター…………。 魔王の鎌を携え、風上日陰をここまで追いやった人物。 高橋を影から操り風見ひなたを破滅させた人物。 返り血で毒々しい朱に染まった黒衣を風になびかせ、こちらを見つめている。 「未だに俺を怨んでいるか?」 ハイドラントの問いに、日陰は首を横に振った。 「あなたがやらなくても……いずれはこうなることは決められていました」 これは本音だろうか? その求題は自らにすら届かない。 そうですとも、この方がいなければあたしはいつまでも風見ひなたの体内にいたのです から。 何故、あそこまでお兄ちゃんを追いつめたんですか?そこまでする必要などなかったの に。 異なる返答をその問いに浴びせかけながら、日陰は途方に暮れた表情で佇んでいた。 「もうこれで残った連中も始末した。……部下達もみんな死んだよ。俺が殺した」 淡々とそう語るハイドラントの目を見ることもできないまま、日陰はその話を聞いてい る。 「綾香はっ」びくり、とハイドラントの右手が震えた。「……この手で」 日陰はばっと顔を上げると、その手を取った。 両手で掴み、頬摺りする。 ハイドラントの手に染みついた血の赤が日陰の顔を汚した。 「おい、よせよ。お前はそんな奴じゃないだろ?」 その唇を、日陰の接吻が封じた。 暮れ落ちる黄昏の中で二人はしばらくオブジェとなってそこに在った。 日陰がその身を放すと同時に、ハイドラントの目から滴がしたたり落ちた。 「止めてくれよ、日陰」 日陰はそろそろとハイドラントの顔を見上げた。 ハイドラントは大粒の涙を瞳に溜め、日陰を見下ろしていた。 「お願いだ……俺を愛するな。じゃないと……俺が何のためにみんなを殺したのか分から なくなっちまう」 日陰は一瞬だけその顔にショックを露にさせ……やがて顔を伏せた。 「マスターの……ご命令と……あらば」 愛など、この方にはいらぬのだ。 その感情を否定することによってこそ、彼はここまで来た。 思えば自分がこの方を魅了したときからずっと、彼はこうやって歩いてきたのだ。 今更自分が何を出来るというのだ? 愛は禁じなければならない。それは「破壊」という名の「救済」からもっとも遠い物だ から。 だがしかし、自分に許された愛の形が一つだけ在るとすれば。 それは、まさしく……。 「消してくれ」 日陰はハイドラントを見上げた。 優しげな笑みを浮かべ、ハイドラントは日陰の額を撫でた。 「俺を消せ。マスターとしての最後の命令だ」 ぽたりと落涙が日陰の顔にかかる。 ハイドラントは少女を抱きしめて、呟いた。 「そして恋人からの最初で最後の頼みだ。俺に、お前だけの愛をくれ」 その意味を悟ったとき、既に日陰は詠唱を始めていた。 もう何回同じ呪文を唱えたことか。しかし彼女にとってはそれはそのうちのどれとも違 った意味の呪文であった。 『混沌の海に生まれ死す全ての哀れなる命に安らぎを』 そして 『静寂の大海に去りゆく全ての幸福なる魂に我が愛を』 「金色の安息に眠れ…………………」 日陰の腕の中でハイドラントは静かに消滅していった。 ついに日陰の元からマスターは去ってゆく。 へたりこむ日陰の頬にそっと手を伸ばし、ハイドラントは囁いた。 「愛している。先に待ってるぞ、日陰……」 日陰の涙は、ハイドラントを素通りして地に落ちた。 (卑怯者) 日陰の中の少女が叫びをあげた。 何故、何故そんなことをしたのですか。 黙って死んでいってくれなかったのですか。 「どうしてあたしの心の中に残るような……そんな死に方をなさったのですか?」 とめどもなく溢れる涙を、魔王はどうすることもできないでいた。 そのとき魔王は絶対の破壊者ではなくただの無力な少女だった。 図書館のあった場所の中心でまさたとゆかたが抱き合うようにして絶命していた。 その側に落ちている古びた書物を拾い上げる。 血に濡れた表紙には美しい葉の文様が描かれていた。 「世界樹の……末葉の書」 ハイドラントが自分を目覚めさせるために使用しようとした魔法書だ。 まさたが自分の覚醒を食い止めるという名目で回収しようとしたこともある。 だが、彼の本当の目的はそんなことではなかった。 彼が被使用を恐れた人物は自分などではなく……。 「なんだ、あなたが持っていたの」 日陰は振り向いた。 賛美歌にさえ聞こえる風の音を振り払いながら、廃墟に佇む少女を見る。 「エディフェル。その二つの書はあたしがもらい受けるわ」 少女の短い髪が風にそよいでいた。 その手元にはしっかりと二冊の書物が握られている。 秩序法典・運命大典。 世界そのものを運営する書物と世界の運命が記された書物。 いわば、秩序と運命そのもの。 少女の横から三つの影が現れた。 一人は西山英志。一人は柏木賢治。一人は遊輝。 書を護る者たち。 「生き残ったメンバー勢揃いってとこね」日陰はふてぶてしい笑いを浮かべた。 「どうするの?お兄ちゃんもマスターもいない。メンバーは半分よ?」 だが一番好戦的であるはずの遊輝からも闘いの気配は感じられなかった。 そこにあるのは虚脱。 決して空虚でも倦怠でもない。 ただ、使命を果たした後のような虚脱感。 「日陰……いや、魔王よ。妾達はもうすでに事は半ば果たしている」 「この世界はお前の一人天下だ。好きなようにするがいい」 「ただ、一つのことを除いてな」 それぞれの言葉の後、三人は掻き消えた。 日陰の目は、確かに彼らがこの世界から消え去ったのを知った。 彼らは何のために現れたのだろう。 自分に勝ちを知らせるためか?それとも何か企んでいるのか? かつん、という靴音。 少女が一歩踏み出していた。 日陰は掌を少女に向けた。 「動くかないで。消すわよ」 だが、少女はにこりと笑っただけだった。 「どうせ私は消えるのでしょう?」 その言葉の重さに、日陰の手が下がる。 少女は秩序法典と運命大典を宙に浮かべ、ページをめくっていった。 日陰は呆然としてその光景を見つめていた。 「あなたが消してしまった三人の女神の代わりに……私がこの役目を背負いました」 女神? 何を言っているのだ、彼女は? 「今なら分かります、この世界での私の存在理由が」 (それは?) 「それは」 少女は目を見開いた。 ぴたりとページをめくる動きが止まる。 不意にとてつもない恐怖に襲われ、日陰は少女の胸を打ち抜いていた。 攻撃の後で日陰は自分のしたことに気付き、少女に走り寄る。 奇妙なことだが、このとき日陰は死をもたらす魔王として行動してはいなかった。 「エディフェル!?」 少女は自分の胸を打ち抜いた者に対して笑いかけると、ゆっくりと頷いた。 「治さないで。これでいいんです」 「……あなたは一体、何をしたの?」 少女は薄い笑いを浮かべ、魔王の顔を見上げた。 「過去の一時点に干渉して、秩序と運命をを混乱させました。異なる世界への分岐を…」 日陰には意味が分からなかった。 ただ、少女の身体については一つだけ分かっていた。 「あなた…女神?」 少女はこくりと頷くと、その四肢の先端からゆっくりと消滅を始めた。 それを恐れた風もない。 ただあるがままにそれを受け入れ、その姿を薄まらせていった。 「これで、いい……私はただこのために存在を続けてきたのですから……」 「エディフェル!あなたは一体……」 日陰の必死の問いに、エディフェルはそっと笑顔を返した。 「世界が完結するとき……行き詰まりを阻止して、世界のエントロピーを保つ者。それが、 私……書を護る者達の究極の使命の先にある……女神」 そして女神は使命を果たし、世界から消え失せた。 あとには世界最後の生命となった日陰だけが残されていた。 日陰は女神の残した台詞の意味が掴めていなかった。 しかしそれでいいのだと思った。 所詮自分はそれを理解するようには生まれては来なかったのだし……。 自分にはすでにどうだって良いことだったから。 「もしもこの世界をみつめる傍観者がいたならあたしのことを悪だと規定するかしら」 その呟きを聞く者は、もうない。 それでも日陰は呟いていた。 「だけど、魔王だって好きで世界を滅ぼすわけじゃない。愛するからこそ滅ぼさねばなら なかった魔王だって、ここにいるんだ……」 どこからか賛美歌が聞こえてくる。 世界が無数の粒子になる。 太陽が黒く染まる。 風が静止する。 そして世界が終末を迎える。 「あたしが求めた世界はこれじゃなかったのかも知れない……」 だがもう引き返すことは出来ない。 誰もそれを見届ける者がいないまま、日陰は背中から純白の羽を取り出した。 六枚のセラフの羽を広げた彼女は両手一杯に世界を抱きしめるようにして、叫んだ。 「我が愛の元に、世界よ黄金の安息に眠れ!」 後には虚無だけが残された。 涙をこぼしながら、風見は起きあがった。 哀しい夢を見てしまったようだ。 ある少女の夢だった。 世界を滅ぼす力を与えられながら、少女らしい心を持ってしまったために彼女は苦しむ のだ。 それは大いなる力の代償だったのだろうか? 風見にはそうは思えなかった。 望んで手に入れた力ではなかったのだから。 その故に苦しんだ力なのだから。 もし女神の言っていたことが本当なら、彼女には幸せな世界で暮らして貰いたいと思っ た。 この気持ちもいつかは消えてゆくのだろう。 自分は少女の事を忘れてしまうだろう。 その前に、今だけでも彼女の幸せを願わずにいられなかった。 「ひなたさん」 どんどん、とドアがノックされる。 「ひなたさーん」 風見はただ悄然とベッドの端に腰掛けていた。 「もー、あなたってば!」 美加香が入ってきて、フライ返しを振り上げた。 「いつまで寝てるの?ルーティなんかとっくに学校に……?」 美加香は風見の潤んだ目を見て、ぎょっとした。 信じられないものがそこにあった。 「あなた……もしかして、泣いてるの?」 「!」 風見は妻に涙を見せないようにそっぽを向くと、つっけんどんに言い放った。 「22歳でもう老眼ですか?僕が泣いたりするわけないでしょう!まだ眠いんです!」 美加香はそんな夫の背中を見つめていたが、やがてそっと背中に近付いていった。 小さいはずなのに、何故か大きく見える背中からぎゅっと覆い被さる。 「なっ」 「ひなたさん」 抗議の声を上げようとする風見を無視して、美加香はくるむように風見に抱きついてい た。 「心配いりませんよ。みんな……幸せですから」 「え?」 もしかして、僕の夢を解って…………。 驚いて振り向く風見にウインクを返す。 「でも、今は私が一番幸せかなっ!」 「貴様って奴は……」 自然と顔がほころぶ。 「美加香!」 「やんっ!」 がすっっっ!!!!!!!!!!! フライパンが風見の後頭部を強打していた。 「可愛い従妹がお腹空かせて待ってあげてるのにいきなり新婚モードしてるんじゃない!」 当の風見は後頭部を押さえてベッドにうずくまっている。 美加香はさっとベッドから飛び降りると、服の乱れを直した。 日陰はべーっと舌を出すとフライパン片手に部屋を出てゆく。 苦悶の声を上げる風見の顔をちらっと見て、「すみません、ご飯作ってきます」と呟い て美加香も走っていこうとして……くるっと振り返った。 「いたいのいたいのとんでけっ!」 そしてまた走り去ってゆく。 向こうの方で、日陰達の元気な声が聞こえてくる。 「ちょっと、それじゃあたしが口やかましい鬼小姑みたいじゃない!」 「え!?違ったんですか?」 「……いい性格してるわ。あなたも」 「お褒めに与り光栄ですっ!」 「ほめてなーーーい!」 風見はまだ痛む後頭部を押さえながら、よろよろと立ち上がった。 まあ、色々大変だけど。 「きっとこれが一番幸せかもな」 そう呟くと、風見は朝食を取りにやかましい階下へと降りていった。 役得役得(笑)