「ただじっと月を見ていた」。 いつどんな時でも訪れるものがある。 たとえ悲しみに胸が張り裂けそうな時でも、切なくて身が千切れてしまいそうな時でも。 それは必ずやって来て柔らかに泣く者の体を包み込み、苦しみを癒す事は出来なくとも 涙を流す者の姿を衆人から隠す。 夜。 無音の静寂と安らかな眠りを与えてくれるもの。 だからあたしは夜が好きだ。 白日のように全てを照らし出すような無神経な真似はしないから。 それが闇の眷族の動き出す時間であり、強い光に虐げられてきた無数の妖魔が光の眷族 達の生き血を求めて蠢く塊であったとしても―― あたしは夜が好きだ。 今宵は久しぶりの良い夜だと思う。 月は強すぎず穏やかに地上を照らし、街は静かな眠りに就いて誰も動く者はない。 あたしはそんな晩になるとこっそりと寝床を抜け出して、窓から外へと出る。 じわじわと身体を包み込む解放感は決して牢獄から抜け出たことによる物だけではあ るまい。人々の穏やかな眠りが空へと浮かび上がり、街全体を柔らかな空気が満たす。 月の優しい光と大地の安らかな寝息が空のただ中で交じり合い、あたしを包み込む。 まるで母親の膝に抱かれているような安心感が、次第に束縛からの解放感となって心が 落ち着いて行くのを感じる。 あたしはいつものように空中を漂い、落ち着いた静寂に五感を委ねる。 この与えられた能力は決してあたしが望んで手に入れた物ではなかったけれど、唯一つ 空を飛ぶ能力だけは気に入っている。誰にも邪魔されず静かな夜空を満喫する事が出来る。 尤もあたしが夜を愛する性質もまた闇の眷族に近く生まれついてしまったこの心と体のせい なのかもしれないのだけれど。 やがて漂う事に飽きると、あたしはゆっくりと五感を街中に散逸させる。 安らかな寝息、明かりの消える窓、懐かしい石鹸の匂い、夢の味、流れる川の冷たさ。 何て静かな夜だろう。闇の眷族達も今宵は眠りに就いているようだ。 いつもならば静かな夜を台無しにする青年達も妖魔達もそれを狩る狩人達も、今日は 沈黙の中に横たわっている。 だからこそ、静寂の中での揺らぎはよく見つかるのだ。泉に落ちる一滴の水滴のように。 あたしは静かに意識をそこへと向ける。 「今日は珍しく静かな晩だねぇ」 金髪の女性はそう言って静かに道のただ中を歩いている。割とラフな服装で咥えタバコ なんてしているけど、あたしから見ると明らかに人間じゃないってすぐ分かる。 その横を跳ねながら歩いている同じく金髪の女の子は、何としっぽを隠そうともせずに にゃあにゃあといかにも上機嫌だ。 「嬉しいにゃ! 今日は人間どもも出歩いてないにゃ!! 道の真ん中で昼寝だって出来 るのにゃあ!! ……あれ、夜に寝るからやっぱり昼寝じゃないにゃ? これって何て言 うのかにゃ? メイフィア、教えるにゃあ!!」 「……ただの睡眠、って言うのよ」 女性の方はいかにも疲れた表情で猫の子に答えている。 だけど猫の子は全く堪えた様子もなくやはり嬉しそうに騒いでいた。 「さすがメイフィアは物知りにゃ! でも夜に寝ちゃつまらないからやっぱりお散歩にゃ! とっても健康的なのにゃ〜!!」 「はぁ〜。たまといると全然散歩らしくないよ。大人しく猫の集会にでも行けば良いのに」 「何を言うのにゃ、たまを普通の猫ごときと一緒にするにゃあ! たまはスーパーな猫又 なんだからにゃあ!!」 「……柏木さんちだといつも喜んで猫まんま食ってるじゃないか」 くすくすくす、おっかしいの。 あたしは漫才のようなやり取りを見て、思わず忍び笑いをしてしまう。 するとメイフィアと呼ばれた女性が僅かに眉を吊り上げ、周囲を見渡した。 それを不思議そうな顔で猫の子が眺めている。 「どうしたのにゃメイフィア? トイレでも探してるのかにゃ?」 「違うわよ。……今さっき、誰かが笑ったと思ったんだけど……気のせいみたいね」 あらら、いっけない。 あたしの存在は彼女では見つけられないと思うけど、注意しなくっちゃね。 誰だって覗き見されてると分かったらいい気はしないもの。 ごめんね、と呟きながらあたしはその光景から視点を外した。 それにしても実に素晴らしい夜だ。こんな夜はここ数ヶ月お目にかかっていない。 あたしはゆらゆらと空中を漂いながら、なおも五感を拡散し続ける。 その中であたしはとても「近しい」存在を見つけた。 光届かぬ夜より深い闇の中であってすらもなおくっきりと姿を示し、しかもその輪郭は 光を当てられて見えるのではなく自らの闇が他の闇よりも際立つが故に見える。なのに、 決してそれは闇の眷族のような気分の悪くなる色ではなく、むしろ見る者を惹きつけず にいられない綺麗な色をしている。 無論それはあたしのお兄ちゃんとは正反対に綺麗な色なのだけれど、今ではだからこそ あたしは彼を選んだのかもしれないと思っている。あたしはお兄ちゃんとの同化を望んだ けれど、またその負担となる事を恐れていたから。 魔王たる我、風上日陰の唯一にして絶対のマスター。ハイドラント――。 なーんて言ってみたりして。 人間としてのこのあたしはあんまりこんな勿体ぶった口調は好きじゃない。だけど魔王 としてのあたしはこんな喋り方をする。二つはどちらも否定できず「あたし」。多重人格 とかそういうのでなく、人間と魔王の両面は複雑に絡み合う形で融合して風上日陰という 存在を形成している。普段は人間のあたしがいて、使命を果たす時には魔王のあたしがい る。だけどこれは別に変な事じゃないと思う。人間は誰でも時と場合で別の人格のように 行動しているものだ。あたしはそれを「ロウ」によって定められているだけなのだから。 ちょっと長かった上にくどい思考だとちょっと反省する。性分のせいか時々こんな事を 長々と考えちゃうんだよね。人間として暮らしていけたとしたら、多分良いお母さんって 言われる人になってた……というか、なりたかったんだけど、もしも勉強をずっとしてたら 哲学者になってたかも知れないな。魔王になっちゃった以上はもう仕方ないんだけどね。 それにしても、あたしってホント感傷によって難しい言葉使ったり女の子っぽくなったり するよね。やっぱりこれも人間と魔王の心を持ってるせいなのかな。 そんなことを考えながら空を漂ってると、マスターはこちらを振り向いて静かに呟いた。 「日陰、そんなところで見ていずにこっちに来ないか?」 召命とあらば受諾せざるを得まい。元より謝絶する理由もないのだから。 いや、むしろ……あたしもマスターの側に行きたかったのだし。 あたしは拡散した五感を集中させて座礁軸を多次的に求め、世界を折りたたんでここと 目標との座標を重ねあわせる。軽く目を閉じてもう一度開けば……。 もうマスターのすぐ横に立っている。 「……いい晩だな」 「うん、とても静か……」 あたしは高層ビルの屋上から静かに眼下を見下す。冬の冷たい風は生身の身には冷たく 外へ出る気も失せさせるものとなるだろうが、既に人ならぬこの身体には心地よいものと 感ぜられる。元よりあたしは自然の為す全ての物を心地よいと感じるのだけれども。 隣のマスターはどう感じているか分からない。あたしは契約したときから今までずっと マスターの一部であり、マスターはあたしの一部であるけども結局はあたしはマスターで はない。マスターが寒くとも辛くとも喩え心が凍えそうな時もその痛みをあたしも感じて あげられることはなく、ただ側にいてあげることだけしか出来ない。……こんな事を考え てしまうのも、マスターにあたしの痛みを分かち合って欲しいと思った事があるからなの だけれど。しかし結局痛みを分かち合えなくとも、只の人のように気遣う事は出来る。 「寒くない、マスター?」 「ああ。お前は?」 「あたしは……平気」 言いながらあたしはマスターの横顔に見とれている。視線を合わせず静かに街を見下ろ しているマスターはちょっと格好良くて、やっぱり武道の修練を積んでるんだものね、と あたしは何だか誇らしい気分になる。 不意にマスターはあたしに向き直ると、あたしの手を取って握った。 マスターの細身なのに力強い掌から、その強さをそのまま表すかのような温もりがあたし の手に伝わってきてあたしは思わず頬を赤らめた。 「馬鹿だな……冷たいぞ。早く帰れ」 「大丈夫だよ。あたしはなんたって魔――」 「魔王でも、冷たい風は身体に毒だ」 あたしの無敵ぶりはマスターが一番分かってるくせに……そう言いかけてマスターの目を 見て、あたしは言葉を失う。お兄ちゃんの目と重なって見えた。あの頃のお兄ちゃんは勿論 決してマスターみたいな力強い瞳をしてはいなかったけれど、でもやっぱりあたしを気遣う 目でどこか憂いを含んだ目であたしを見てて、あたしはだから何も言えずに頷いてた。 今もあたしは気が付けばマスターに頷きを返している。 途端にあたしはマスターにとても失礼な事をしてしまった気分になった。何故といえば、 マスターはマスターであってお兄ちゃんではないから。あたしはお兄ちゃんは勿論好きだ けど、同時にマスターも好きだと思う。だから二人を重ねあわせる事はしたくなかった。 「あ…マスター、ごめんなさい!」 あたしは慌てて謝った。だけど多分その意思は通じてないと思う。あたしだって、この タイミングで謝られたら寒い中を出歩いていた事についてだと思うもの。 だけどマスターは何も言わずにふっと口元を緩ませてくれた。 あたしは救われたと思った。何も言わずにいてくれて良かった。 「さ、とっとと帰るんだな。俺はしばらくここにいるとしよう」 そう言ってマスターはほんの僅かに微笑んだ。 あたしはちょっと困ってしまった。その笑顔が、またお兄ちゃんと重なってしまったから。