「俺は、何故俺として生まれてきたのだろうな?」 その唐突な問いに―― 答えなど返せる筈もなく、彼女はただ戸惑いの視線をそちらに向けた。 彼は……変わった様子は見せていない。 鉄格子の向こうで、鎖に繋がれ、その瞳をぼんやりと――と言うには余りに 彼の眼差しは確固としていたが――虚空に向けている。 もう見慣れた姿ではあった。許容することは出来なかったけれども。 「神は万能にして完全だ。つまりは全能」 だが彼自身は、己を置く環境が全く不本意ではないかのように、かつてと変 わらない様相を見せ付けている。即ち、瞳には光があり、声には力がある。 「為せぬことは無く、その為すことに欠けた所も無い。 全ては主の御心のままに」 敬神の言葉を口にしつつ、彼は恍惚とした表情で眼を閉じた。 (そう、彼は敬虔な使徒) 他の誰よりも。誰もがそれを知らなかったが、彼女だけは知っていた。 「諸々は俺を反逆者と呼ぶ。神の御心に逆らう者と呼ぶ。 だがそのような事は有り得ない。神によりつくられしこの俺が、神の御心に 沿わぬものである筈がない。 俺という存在は、神に望まれたものだ」 彼の言葉には揺らぎがない。欺瞞の響きの片鱗すらない。 当然だ。彼は真実を語っているのだから。 「では神は、俺という存在に何を望まれているのか。 神は何故この俺をつくられたのか」 瞼が開かれる。 蒼い双眸が再び虚空を見る。 「欲求を持たせながら、それを満たすことを禁じ、絶望の苦痛に苛ませる為か。 それとも、俺が欲求のままにこの身を突き動かし、天を舞い、地を駆け巡る ことをお望みなのか」 彼は問い掛けた。神に。己に。 彼の中の神に。 「答えは――」 そこで。 彼は、ふ、と仰向かせていた顔を下ろし、彼女へと向けた。 今まで彼女の存在に一顧だにせずにいながら、その表情には彼女が彼の話を 全て聞いていた事に対する髪一筋ほどの疑念も浮かべていない。 穏やかな傲慢。 「分かるか、ユンナ」 分からない。 彼女には主の心は分からなかった。彼に出会ってからは、分かろうとする努 力すら放棄していた。 (……私はもう、主の使徒ではない) 彼女の神は既に死んでいた。彼が殺したのだ。 「……私は」 ――なればこそ。 彼女は迷わない。 手の届かない真実を捨て、触れることの出来る真実を選んだ彼女の前には、 もはや道は一つしかなかったのだから。 鉄格子を握り締める。 冷たい感触を押し潰しながら、彼女は彼に、薄く微笑んだ。 「……貴方をここから出す。 それが答えよ……ウィル」 Lメモ私的外伝16 私的外伝第十六弾。ユンナ編であります。 実はナイトライターやったのはつい先日。猪名川買った直後に一度手は付け たんだけど、練習モードで投げ出していたり(笑) でも面白いとかいう話も聞いていたので、こないだふと思い立って本格的に やってみました。人指し指一刀流で。(笑) んでクリア後にまず思ったこと。もっと早くやれば良かった。 ……まさか、かくも十三使徒向きのキャラがいたとはねー……(笑) 「堕天」 そこは、ただの荒野だった。 Leaf学園からは徒歩でも三十分と掛からず、また見上げれば鬼の伝説が 今も残る雨月山があったりもしたが、それでもそこは何かという問いにただの 荒野という以外の回答は有り得なかったろう。 だがその荒野に、今、『歪み』が生じようとしていた。 「かっぱえびせんは、何故かっぱえびせんって言うんだろうね?」 その唐突な問いに―― 答えなど返せる筈もなく、彼はただ困ったような視線をそちらに向けた。 夕暮れ時の、小高い丘の上。 面白味も何もない荒野を見下ろしながら呟いた彼の相棒は、顎に手を当てて、 眉間に小さな皺を寄せている。 つまり、本当に悩んでいるように見えた。 「……かっぱえびせん?」 「うん」 仕方なく問い返した彼に、彼女は真剣な面持ちで頷く。 「えびってのはいいとして。せんってのは、多分せんべいのことなんだろうね。 でも、かっぱは何? 何が河童なの?」 うーんと唸る少女の横で、彼も胸中で問いを発していた。 (この娘は実は世界を滅ぼそうとしている魔王なんです、って言われて、信じ る奴はどれくらいいると思う? ハイドラント) ……それは、悩むまでもなく。 百人に言えば、うち九十人は指を差して笑い、親切な残りの十人は救急車を 呼びに走るだろう。そんな嬉しくもない確信を抱いて、ハイドラント――その 魔王を信仰する組織『ダーク十三使徒』の首長――は、はうと溜息をついた。 そんな彼の横で、彼女――魔王、風上日陰――は、いまだ自問自答を続けて いる。 「河童……きゅうり? 違うよねえ。 もしやこれは、『やめられないとまらない』の秘密と何らかの関連が」 「なあ、日陰……」 何となく遠慮がちになりつつ、ハイドラントは彼女の独り言に口を挟んだ。 「そろそろ教えてくれ。ここで、何が起きるんだ?」 「あ、うん……」 我に返ったか、彼女は顔を上げると、す、と眼を細めた。 赤い空を見上げる。 「……堕ちてくるんだよ」 「落ちてくる?」 「うん。だから、拾ってあげようと思って」 今日に限ったことではないが、彼女の発言には筋が見えない。 顔に疑問符を浮かべるハイドラントに、日陰はくすりと笑うと、軽く息を吸 い込んだ。 そして、歌うように一連の言葉を紡ぐ。 「……愛欲に溺れた天使、天を追われ、心優しき天使、彼の者を拾う……」 美しい旋律の、それは予言だった。 (天使……) 神の下僕。純粋な光の存在。魔族を滅する者。 一般的には架空の存在とされているが、特殊教育機関「爪の塔」で学んでい たことのある彼は、信頼できる目撃報告が幾つか存在することを知っていた。 (その天使が一人、天界を追い出されてここに現れるって事か? そしてそれ を拾うと――) そこまで思考を進めて。 ハイドラントは、思わず尻上がりな口調で呟いていた。 「……心優しき天使?」 「そんな疑わしい顔しなくても、私の事じゃないよ」 ぷー、と不満そうに頬を膨らませつつ、日陰が彼を睨む。 ハイドラントはあさっての方を向いてその視線を躱すと、しれっとした声で 先を促した。 「それで?」 「……本当は、堕ちてくる天使の友達――やっぱり天使なんだけど――が、助 けることになっている。私が『読んだ』未来はそうだった。 でも、この未来は『絶対』じゃない。変えることが出来る」 「それで、その友とやらを出し抜いて、俺達がそいつを拾うという訳か。 しかし、そこまでせねばならない理由があるのか?」 魔王とは、ロウ――秩序。運命と言い換えても良いかもしれない――の定め を執行する者である。彼女が恣意的に行動して運命に介入するとなれば、それ は余程の事であるはずだった。 「私の執行すべき最大のロウは、私の手による世界の浄化」 浄化。即ち全てを破壊し、あらゆる穢れを無の中に沈めること。 それを口にした時、日陰の金色の瞳が、どこか遥か遠くを見るものになった ――ほんの刹那のことだったが。 「しかし、余りにも巨大なロウの執行は、強力な反作用――カオスを生む。 ロウを確実に執行する為には、力有る者達を私達の下、ロウの支配下へと組 み入れ……カオスの側に属することを防ぎ、またカオスの者共を駆逐する為の 力とせねばならない。 だから……」 「地上に降りてくる天使などというものを、放っておくべきではないか。 成程な……」 そう得心して――ハイドラントは、はっ、と身体を強張らせた。 風が吹いた訳ではない。夕陽が翳った訳でもない。だが確かに、空気が変化 したのだ。 「来たのか?」 「来たね」 頷いた日陰が、空の一点を指差す。 ――亀裂。 そこにあったものは、そうとしか呼びようがなかった。 空が小さく裂け、そこから光が溢れている。 そして光の中から、一つの影が現れていた。 輝く翼を広げたもの。 それはしかし、天使という単語が想像させる優雅さとは全く無縁に、ふらふ らと頼りなく翼をはばたかせ、彼らのいる方角に飛んできている。と言うより ―― 「……落ちるな」 「うん。怪我をしてるね……」 ハイドラントは目を凝らし、その天使の身体に無数の傷痕が刻まれているの を見て取った。それだけでなく、翼も片方が欠けてでもいるのか、左右の大き さが不揃いなように見える。 「傷を負わせたのは、後ろから来る連中か。 あいつらの相手は奴に任せておいて問題ない。俺達は、あの天使が墜落する 前に回収してやるとしよう」 「了解、マスター」 日陰が、ふわり、と宙に舞い上がる。 空の亀裂が急激に拡大したのは、その瞬間だった。 ☆☆☆ ぶるり、と、身体が震えた。 背筋を走る何かが身体を揺らすのを抑え切れない。 「……来たね……」 夕空を見上げて、ベネディクトは口元を引き攣らせた。 突如発生した次元断層の中から、数十に及ぶ影が飛び出してくるのが見える。 天使、だった。見間違えよう筈もない。 びくん、と、再び身体が痙攣する。 恐怖ではない。 「何百年になるかな……最後にあいつらを食い殺してから……」 興奮。 歓喜。 くわっ、と、口が耳元まで裂けた。 激情に、身体の制御が利かなくなっている。 だが構いはしなかった。今は人の姿を保つ必要はない。 「るぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ…………」 低く、吼える。 ゆっくり、長く、多量の空気を吐き出し、全身を緊張させる。 (出来る……実体化が……!) 漲る力が、その事を確信させた。 人間界において、魔族としての『実体』を現すためには、多大なエネルギー が必要である。最高級の生け贄――高い霊格を有する十代前半の処女など―― を得でもしない限りは不可能な事だ。 だが、『魔王』が彼に授けた力が、本来不可能なそれを可能とさせていた。 (魔王、風上日陰か……やはり、力は絶大だな。 従う甲斐もあるというものだ……) 魔王はこれまで、ベネディクトにとって災厄しかもたらさない存在だった。 篠塚弥生という召喚魔術師に喚起され、魔界から人間界、Leaf学園へと 赴いたのが全ての始まり。そこでハイドラントに出会い、自分に従えと命じる 彼を鼻で笑って焼き殺そうとした所に、現れたのが魔王だった。 絶対的とすら思える力で服従を余儀なくされたベネディクトを、魔王の『マ スター』であるハイドラント――要は『魔王』を構成する一部品、力を行使す るために必要な制御装置のようなものに過ぎないが――は、遠慮の欠片もなく 酷使した。それだけでも貴族級魔族たるベネディクトのプライドを傷つけるに は充分であったが、ハイドラントの命で戦わされたLeaf学園の者達も、人 間のものとも思えぬ多種多様の能力を使い、一再ならず彼に辛酸を嘗めさせた。 これらの原因が、魔王がベネディクトを従属せしめた事にあると思えば、彼 が彼女に好意を抱けよう筈もなかったが、その力の恩恵にあずかった今なら、 全てを忘れても良いとすら思える。 (これほどの快楽を、味わえるならな!) 視界の端を、ふらふらと舞う何かがよぎっていった。 傷ついた天使。魔王とハイドラントの目的だろう。 それを追おうとしていた一群が、動きを止めている。 こちらを見ているようだ。 彼らに向けて、ベネディクトは微笑した。 大きく裂けた口を、にぃ、と歪めて。 そして、咆哮した。 瞬間。 魔族ベネディクトは、その実体を顕現させた。 ☆☆☆ 空気が震えた。 立ち並ぶビルの間を吹き抜ける烈風の様な……或いは獣の叫びの様な――音。 (そろそろじゃな……) 特に理由も無かったが、彼は胸中でそう呟くとたこ焼きの最後の一つを口の 中に放り込んだ。 吝嗇臭さのない大きな蛸が美味である。 出てくる前に学園内の屋台で買ってきたのだが、値段、量、味、どれも悪く なかった。 (XY−MENとか言うたか、売っとった生徒は……覚えちょくか) 空になった箱をくしゃりと握り潰し、適当に放り投げる。 それは地面に落ちる前に、そこへ横たわっていたものに当たって跳ねた。 人間である。派手な色合いの服を着た若い男。 倒れているのは一人だけではない。狭い裏路地のそこかしこに数人、似たよ うな風体の男達が散らばっている。 死んではいない。殴られ、気絶しているだけだ。 やったのは、彼である。 『お前に命じる。この路地を通ろうとする者を止めろ』 『その人は、私達の目的を妨げる者だから』 彼はそう告げられたのだ。忠誠を誓った男と、その傍らにあった美しいひと に。 その邪魔者というのがどういう人間なのかは聞いていない。だが既に殴り倒 したチンピラ風の男たちの誰かがそうだとは、彼は思っていなかった。この程 度の連中を始末するためだけに自分を使いはしないだろう、というくらいの自 負はある。 彼が用いられたからには、相手は彼でなくては止められない者である筈だっ た。 (……例えば、あやつらのような) 独りごちると、彼は金色のピアスが目障りな男の背中から立ち上がり――座 るのに手頃な場所がなかったので椅子代わりにしていたのだ――路地の奥へと 向き直った。 暗がりの向こうから、二人分の話し声と走る足音が近付いてくる。 「コリン、本当にこっちでいいのか? この先には荒れ地しかなかった筈だぞ」 「間違いないわ。次元の歪みの気配を感じるもの……天界との通路が開いてい るのよ。 芳晴も、何か感じるでしょ。祓魔師なんだから」 「言われてみれば、な。 しかし、マジなのか……ユンナが、天界の犯罪者を脱獄させるのに失敗して、 こっちに逃げてくるってのは」 「うん……まったく、馬鹿なことしてくれるわあの自己中女! あいつにはさんざん迷惑掛けられたお礼をしてやらないとならないのに、牢 獄送りになったらそれが出来ないじゃないの!」 そこまで聞いた頃には、二人の姿もはっきり見えていた。 学生風の若い男と、ゴーグルのようなものを額の上につけているやはり若い 女。外見上は、どこにでもいるアベックでしかない。 だが、違う。辺りに転がっている連中とは何かが。彼はそれを嗅覚で感じ取 っていた。 こちらが二人の姿を認めたのと同時に、向こうもこちらに気付いたのだろう ――ぎょっとした様子で足を止めている。 「な、ななな、何? 喧嘩?」 女はこちらを見上げ、次に地面に寝ている男達を見下ろし、またこちらを見 上げ、という動作をあたふたと繰り返した。急いでいたところに突然尋常なら ざる場面を突きつけられ、動転しているらしい。 対照的に、男の方は警戒の色をにじませつつ、黙ってこちらを見据えている。 その二人に、彼は簡潔に告げた。 「通さん」 「え? え?」 「……何故?」 女を後ろに庇いつつ、男が問い返してくる。 「俺は城戸芳晴。こちらはコリンだ。君とも、倒れている人達とも面識はない ……と、思う。 人違いじゃないか?」 「ぬしらが何者かなぞは、知らん」 右手の指を一本ずつ折り曲げ、拳を作る。 そしてそれを、壁に叩き付ける……ごく、無造作に。 ――轟たる響き。 「ただワシは、ここを通る奴を止めろと、ある人から言われちょる。 汚い路地裏で寝る趣味がないんじゃったら、諦めて戻るんじゃな」 「…………」 男はそれを聞くと、コンクリートの壁に深くめり込んだこちらの拳を一瞥し、 次いで背後に顔を向けた。 「……コリン。他に道はあったっけか?」 「え? えーっと……ないことはないけど、かなり遠回りになっちゃうよ」 「そうか……じゃあ、仕方ないな」 男が再び向き直る。 その表情には、一つの意志が明確に現れていた。 「そちらにも事情はあるみたいだが、俺達も急いでるもんでね。 力ずくで通してもらう」 強い口調で、男が告げる。 (……いい面構えをしちょる) 彼は、そういう顔の出来る男は嫌いではなかった。 ――が。 拳を引き抜く。 ぼろぼろと零れ落ちる石塊には目もくれず、彼は一言、呟いた。 「笑止」 平坂蛮次。 ダーク十三使徒ダーク使徒団第七中隊長。 戦闘力の高さを誇る十三使徒内でも屈指の格闘能力を有する男である。