Lメモ私的外伝15「夜が始まる刻」前編 投稿者:ハイドラント





 唐突だった。
 彼の行動の殆どがそうであるように、この時も。
 やや陽が傾きかけた午後の格闘部、その裏手の小さな庭で友人と二人お茶を
楽しんでいた来栖川綾香の前に彼が現れる理由というのは思い付かなかったし
――自分の周囲には用があろうと無かろうと頻繁に出現する彼も、彼の喧嘩仲
間も、この界隈に顔を出すことは滅多になかった――、暑さに弱いことで知ら
れる彼がこんな時間に外を出歩いている理由というのも見当がつかなかった。
もう十月になるとはいえ、今年は残暑が長く、今日もまたいささか暑い。
 登場も唐突だったが、彼が口を開いて発した言葉の内容の方が、より脈絡を
欠いていたであろう。
「仕合いたいのです」
 その言葉が一瞬、自分に向けられたものだと誤解したのは、いつもの通り彼
の双眸が長めの前髪で隠され、また太陽を背負う形であったからだ。
 だが、彼は今まで一度たりと、自分に対して敬語など用いたことはない。こ
れからもないだろう。
 ことり、と軽くて硬い物が板を打つ音がした。
 綾香の横で、数秒前まで湯飲みを抱えていた両手を軽く握り、友人が彼を見
上げている。
「出て行くの?」
 彼に劣らず、彼女の言葉にも流れというものがなかった。
 彼の頬が、ぴくり、と震える。
「なんとなくね」
 言い訳するような口調で、友人が軽く笑いながら続けた。
「そんな気がしたんだ。君がわたしに挑む理由、考えたら」
「――はい」
 彼は、小さく顎を肯かせた。
「あなたとの師弟の縁、切らせて頂こうと思います。……私がこれから始める
戦いにおいて、それはきっと邪魔なものであろうから。
 ですが、その前に……私は一度、あなたと戦いたい」
 こんな顔も、彼は持っていたのか――
 その驚きは、綾香にとって初めてのものではなかった。
 彼女や梓にからかわれたり殴られたりこき使われたりして、怒ったり泣いた
りいじけたりしていた彼の顔。あの完璧な教師から暗殺技術を受け継いだ、人
の肉体を破壊しながら眉ひとつ動かさない彼の顔。
 『塔』にいた頃からひとつではなかった彼の顔は、この学園に来てから更に
増えたようだった。
 貴様俺の許可もなく綾香の周囲半径5メートル以内に入ったな不法侵入の罪
で抹殺する何だと何故綾香に近づくのにお前の許しがいるんだっお前こそ綾香
から離れろ馬鹿が空気感染したらどう責任を取るつもりだそこまで言うか貴様
言ったらどーするこーしてくれるうーやーたー、という感じで毎日毎日飽きも
せず悠朔と口喧嘩及び殴り合いを繰り広げている彼の顔。ヒモ男よろしくお金
や食事をたかりにくる彼の顔。そして、十三使徒と呼ばれる謎の集団を率いる、
どこか人間を捨ててしまったような彼の顔……
 一種の多重人格なのかもしれない。
 だとすれば、いま綾香の前にいる彼は、初めて見る人間だった。
 『神威のSS』のハイドラント。
「いいよ」
 穏やかに、彼女は頷いた。
 遊びの誘いを承諾するのにも似た、あっけなさだった。
 しかし、その時、彼女もまた、綾香の知らない彼女になっていた。
「やろうか」
 『神威のSS』宗主、EDGE。
 未だ敗北を知らない少女は、す、と立ち上がった――




             Lメモ私的外伝15




 随分と久しぶりのLメモ。
 一部の人にはお待たせしまくった風紀動乱総括+今までロクに書かなかった
神威のSS編です。
 しかしほんとに久しぶりだなー。文章の書き方、忘れかけてたし(笑)
 それでも何とか書き上げた苦心の作、暇潰しがてら読んだって下さい。




             「夜が始まる刻」




 その男は、身体が大きかった。
 身長190センチ、体重80キロ前後というところか。
 欧米ですらこれだけの体格はそうどこにでもいるというものではない。増し
てや日本でとなれば、極めて珍しいと言える。
「……どうでもいいことですが……」
 だから、彼を見て、そして彼が負うことになる職務を聞いて、葛田玖逗夜が
抱いた感想は、無理からぬものであった。
「……外見からは、とても参謀とは思えませんね……」
「そう言われると思いました」
 何が楽しいのか、その男は含み笑いを漏らしつつ、もう一方に目を向けた。
 そちらに座る女性――篠塚弥生は、特に興味を覚えた様子もなく、手元の書
類に視線を落としている。
 つられるようにちらりとそちらを見やってから、葛田は改めてその男に向き
直った。
 男の名は氷上零。
 先日、ハイドラントに連れられてこの第二茶道部に姿を現し、新たに十三使
徒の参謀の列に加わる者として紹介された男だ。
 その折に聞いたところでは、ハイドラントの下で働くのはこれが初めてとい
う訳ではなく、以前から裏で彼の意を受けて様々な活動をしていたらしい。が、
表舞台に出て十三使徒の一員、それも参謀となって働くとなるとまた勝手が違
うため、今日、平時は首長のハイドラントに代わって十三使徒の諸事を司る葛
田玖逗夜と、軍師であるところの篠塚弥生は、氷上に参謀の職務を果たすにあ
たって必要なことを一通り教えるよう、言われていたのだった。
「……では取りあえず、現状の説明をしておきましょうか。参謀は作戦を立て
るのが仕事ですが、状況を理解していなければ作戦も何もありませんからね…」
「はい」
「……と思ったのですが……」
「はっ?」
 出鼻を挫かれ、氷上の顎がかくと落ちる。
 葛田はつと彼から顔を背け、目を細めて庭を見やりながら続けた。
「……趣向を変えて、貴方に説明して貰うことにしましょう。
 仮にも参謀たらんとする者、その程度のことは容易いでしょう?
 間違っている点があったら、僕たちが訂正しますよ……」
「はあ」
「……ちょっとした試験というところです……」
「ははあ……」
 どことなく探るような目つきで、氷上が葛田の横顔を眺める。
 葛田は、沈黙した。
 何となく、彼の視線が重かったからだ。
「……なんですか、その瞳に漂う疑念の靄は……?」
「いえ。別に何も……」
「……まさか君は、僕が鳥頭だという巷の無責任な風評を信じて、『実はこの
人、最近の事件の詳細を覚えてないから説明に自信がないんじゃないか?』な
どと思っているわけではないでしょうね……?」
「まさか。私は葛田師兄の人格だけでなく、能力についても深く崇敬しており
ます」
「……ならば良いのです。つまらぬ事を言って済みませんでした……」
「いえ。ところで師兄」
「……何です……?」
「十三使徒が結成されたのがいつか、ご存知ですよね?」
「…………時間もない事ですし、そろそろ始めましょうか……」
「師兄?」
「……現状を語るに外せないのは風紀委員会ですから、そうですね……」
「いつなんです?」
「……では『嵐の戦争』の前後から説明して頂きましょう。どうぞ……」
「マジで鳥頭なんスか?」
「…………」
「…………」


 ごきゃ。


「ちなみに」
 書類をめくる手を休めないまま、弥生が独言のように呟いた。
「正確な日時は作者も知らないようですので、葛田君が知らなくても不思議は
ありませんが」
「……あと五秒早くそれを言ってくれれば、無駄な死者が出ずに済んだんです
けど……」
 赤い液体が付着した釘打ちバットを適当に投げ捨てつつ、葛田がふゥと溜息
をついた。


 氷上零。本日付で、参謀府参謀、兼第九使徒中隊隊長に着任。
 同日、死亡。いや、五分後に生き返ったけど。




                ☆☆☆




 数瞬の間に、幾つかのことが起こった。
 EDGEが立ち上がりかけた時、ハイドラントの右腕が、ふっ、と動いた。
 小さな、黒いものが飛んでくる。
 石。
 EDGEがそうと気付いたのは、左の掌でそれを打ち払ってからだった。
 弾かれた拳大の石が、先程置いた湯飲みに激突し、甲高い音を立てる。
 砕けた。
 湯飲みの破片が綾香にも飛び、彼女がはっと腰を浮かせる。
 ――僅かに、それに気を取られてしまった。
 隙を作っている。
 それを自覚しつつ、横に大きく跳んだ。
 しかし、遅いだろう。ハイドラントの攻撃が――
 …………
 来ない。
 ガードのために上がっていた腕を僅かに下ろし、彼の方を見る。
 こちらを見てはいなかった。
 右手の方角に、ややいつもより細めた眼差しを向けている。
「……来夢?」
 綾香が呟くのが聞こえた。
 庭の端、格闘部の建物の影から、一人の人間が半身を見せている。
 綾香の声を聞かずとも、知らない人間ではなかった。ハイドラントと同じく、
『神威のSS』を教えた――
「夢幻来夢」
 ハイドラントが、ぼそりとした声でその名を再び響かせる。
「邪魔をするつもりか」
 こちらから離れるように動き、彼は来夢に向き直った。
 EDGEが弾き、湯飲みを砕いた石を、ハイドラントに投げつけたことを言
っているのだ。
「出て行くそうやな」
 建物の影から出て、来夢が全身を現す。
 男――それも格闘技を身に付けた者にしては余りにも華奢に見える体。繊細
に過ぎる容貌。
 だが、見る者が見れば、彼の体が一通り以上に鍛えられていること、双眸に
は刃物めいた鋭さが宿っていることに気付くだろう。
「なら、まず俺とやってもらおか」
「何故?」
「簡単な事や」
 す、と来夢が腰を落とした。
 左腕を上げ、右拳を引く。
「俺はまだ、あんたに勝っとらん!」
 くわっ、と彼が犬歯を剥いた。
 例えるなら、肉食獣の笑顔。
 危険な匂いを撒き散らしつつ、彼が『呼吸』を始める。
 『神威のSS』独特の呼吸法だ。
「…………!」
 それに応じるように、ハイドラントも『気』を高めていく。
 空気が張り詰める。
 それを感じ取ってか、綾香が小さく身を震わせた。
 彼女は、二人の発する気配が次第に危険さを増していくのを、肌で感じ取っ
ているのだろう。
 だがEDGEは、二人を包む『気』を、視覚的情報に近いものとして認識出
来ていた。
 二人の『気』の高め方は、対照的だ。
 来夢が『気』を膨れ上がらせ、質量――という言葉が適当だとは思えないが
――を大きくしているのに対し、ハイドラントは質量は変えず、『気』を凝縮
し、より鋭いものにしようとしている。
 言わば、鉄槌と剣か。
 質量を増やすにも、鋭さを増すにも、限度がある。
 その限界が、近い。
「…………来夢」
 と、思えた時。
 ハイドラントが、構えを解いた。
 高まっていた彼の『気』が散る。
「え?」
 ぽかん、と口を開け、来夢が脱力した。
 彼の『気』も、霧散する。
「闘うまでもない……」
 微笑めいた表情を浮かべて、ハイドラントはそう口にした。
「お前の技は、既に私を凌いでいる」
「…………!」
 訝しげに眉根を寄せた来夢の顔に、ゆっくりと理解の色が広がる。
 そしてすぐに、一つの表情を形作った。
 怒り。
「なんじゃ、そりゃ!」
 ずかずか、と大股で彼はハイドラントに近づいていく。
 ハイドラントは、目を伏せた。
「スカしたこと言いよって、誤魔化そうってんか? 俺があんたを凌いだかど
うかなんて、立ち合ってみなきゃ分からんやろが!」
 ばっ、と来夢が手を伸ばす。
 その手がハイドラントの胸座を掴んだ――
 つもりだったのだろう。
 だが実際には、彼の手は何物にも触れなかった。
「……へ?」
 来夢の前には、誰もいない。
 ――前には。
「私がお前に教えるべきことは、あと一つ――」
 その声は、来夢の背後からであった。
 そして、声と同時に、来夢の喉に絡み付くものがあった。
 ハイドラントの右腕。
 来夢の右側から顎の下にそれは差し込まれ、ハイドラントの左肩を掴む。
 間を置かずその手首を左腕の肘間接が挟み、手が来夢の後頭部を固定した。
 チョーク・スリーパー。
「――戦場常在。
 武道を志すのならば、覚えておけ……」
 一。
 二。
 三。
 四。
 五……
 かくん、と来夢が膝を折った。
 ハイドラントが、腕を離す。
 力を失った来夢の身体が、どさ、と土の上に倒れ伏した。
「……こいつのことも、気にはなっていましたからね。
 けりをつけることが出来て、良かった」
「……多分、怒ると思うよ」
 言いながら、EDGEは動いた。
 倒れた来夢を避けつつ、ハイドラントと相対するように。
「でしょうね。
 仕返しに来られても面倒ですし、適当に宥めておいてやって下さい」
「聞くかなあ……」
 激怒して騒ぎ立てる弟子の姿を想像し、思わず笑みを洩らす。
 笑いつつ、一歩、踏み込む。
 間合いが、触れる。
「しッ!」
 鋭い呼気と共に、ハイドラントが下段蹴りを繰り出した。
 ――フェイクだ。
 本命はこの次。
 蹴りに反応して右足を上げるふりをしつつ、彼の動きを見る。
 ハイドラントは空を切った蹴り足をそのまま打ち下ろし、軸足を引き付け、
一息に近距離に入ってきた。
 彼の右肘が、上から襲ってくる。
 ――見えている。
 EDGEは回り込んでそれを躱しながら、掌底のフックで彼の顎を狙った。
「っ!」
 ハイドラントは肩を持ち上げて、その一撃を受ける。
 だが、よろめいた。
 足が僅かに泳ぐ。
 その隙に、EDGEは更に回り込み、ハイドラントの背後に出た。
「っらっ!」
 正拳。
 拳が、ハイドラントの背にめり込む。
 手応えは――浅い。直前に、ハイドラントが身を倒していたせいだ。
 彼は前転し、地を蹴って間合いをとりつつ立ち上がった。
 こちらに向き直る。
「……いい……」
 その顔に、笑いがあった。
 喜悦の笑みが。
「やはり、あなたは素晴らしい……EDGE師匠!」