Lメモ私的外伝12「STARTING」中編 投稿者:ハイドラント
「お前は……!」
 体育倉庫の陰から現れた男。
 その顔を見て、悠が叫ぶ。
「神凪遼刃!!」
「こんにちは、皆さん。いい昼ですね」
 妙な挨拶を返す神凪を、綾香は強い口調で詰問した。
「つまり、これはあんたが仕組んだ事なの?
 それとも……『十三使徒』?」
「……そういや、何時の間にかハイドラントがいない!?」
 十三使徒。
『魔王』風上日陰を奉ずる組織。
『魔王のマスター』ハイドラントが首長を名乗り、百名余りの構成員を統括し
ている。
 妖術師たる神凪遼刃は、『使い人』に抗する力を得るため、それに属してい
た。
 綾香と悠の言葉に、神凪は小さく笑った。
「さて? どちらでしょうね。
 まあ、長瀬祐介を模して、この『人形』を作ったのが私である事は確かです
よ。
 ……しかし、あまり面白いことにはなりませんでしたね。芹香さんの魔法の
事を考えていなかったのは、計算ミスでした。
 いや全く、残念です」
「期待に添えられなくて悪かったな。
 で、どうする? タネの割れた手品師は、観客に石を投げられる前に退場す
べきだと思うがな……」
「いえいえ」
 威圧を含んだ悠の言葉に、神凪が口元を歪める。
「手品は、もう一つあるんですよ。
 つまらないものを見せてしまった償いのためにも、是非見て頂きましょう」
 そう言うと、妖術師は大きく飛び退った。
 そして、叫ぶ。
「『祐介』! お前の電波で、皆を支配せよ!」
「了解」
 う゛ぅぅぅぅぅぅぅぅん……!
 祐介(真ではなくて偽)が、電波を放出しようとする。
「させるかっ!」
 う゛ぉぉぉぉぉぉぉぉん……!
 それを防ぐべく、同じく電波を放つ祐介(偽ではなく真)。
 う゛ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃん!!!
 双方の電波が、真っ向から激突した。
 空間がきしみ、歪む。
 その脇から、一つの影が走り込んだ。
「人形だってんなら、手加減はいらないな!」
 走りつつ、悠は剣を引き抜く。
「しゃぁっ!!」
 必殺の一撃が、祐介(偽)の肩口に振り下ろされた。
 ――瞬間。
 ぎぃぃぃぃぃぃん!!!
 硬質の音を立てて、悠の剣が弾かれる。
「何だとっ!?」
 驚愕の声を上げ、慌ててその場から飛び退がろうとする悠。
 だが、それより早く、祐介(偽)の手が、悠の胸座を掴んでいた。
「!」
 祐介(偽)は悠を片手で持ち上げると、祐介(真)に向かって投げつける。
「な!?」
「馬鹿なっ!!」
 まともにぶつかり、地に転がる二人。
 祐介(真)の電波が止まる。
「! いけない、綾芽!!」
「はいっ! タケミナカタっ!!」
 綾香の声に応じ、綾芽が熱衝撃波を放つ。
 光熱の波動は、避ける暇を与えず祐介(偽)を襲った。
 熱波の渦の中に消える祐介(偽)。
「やった……か?」
 投げられた衝撃でちらつく視界にその光景を見つつ、悠はゆっくりと立ち上
がった。
 祐介(真)は、打ち所が悪かったのか、うつ伏せに倒れたまま動かない。
「確かに直撃したわ……これで無事な筈は……」
 荒れ狂っていた熱波も、やがて拡散する。
 そして――
「っ!?」
「おい……」
「そんな……」
 一つの影が現れる。
 ……祐介(偽)。
 制服は焼け焦げていたが、その下の肉体はさしたるダメージも受けていない
ようだった。
「……ちょっと、熱かったよ」
 そううそぶき、にやりと笑う祐介(偽)。
「……魔術の光熱波の直撃を受けて『ちょっと熱かった』で済ませる気…?
 普通じゃないわよ、あんた」
「勿論、普通ではありませんよ」
 綾香の呻くような声に、離れて見守る神凪が面白そうに答えた。
「これが二つ目の手品です。
 どうです? タネは分かりましたか?」
「……分からんな。降参だ」
 言って、悠は剣を下ろし、構えを解いた。
「パパ!?」
「ほう? それは、諦めたと言うことですか?」
「手品の正体を暴くのは、な。
 だが……」
 びゅっ!!
 下ろしていた剣を真上に振り上げる。
「手品師を倒せば、このインチキ手品も終わりだ!
 真・魔皇剣!!!」
 轟!!
 振り下ろされた剣から、衝撃波が放たれる。
 それは大地を切り裂きながら、妖術師をめがけてまっしぐらに迅った。
「っ!?」
 不意を打たれ、神凪の顔が引き攣る。
 避けられるタイミングではない――
 のだが。
「……戻れ」
 呟くような声がした。
 その途端、衝撃波はまるで壁にぶち当たったかのように弾き返され、悠に向
かって飛ぶ。
「なに!?」
「危ないっ!!」
 咄嗟に綾香は悠を体当たりで突き飛ばした。
 刹那。
 ばぁぁぁぁぁぁん!!!
 二人の脇を掠め過ぎた衝撃波が木に激突し、破砕音と共に文字通り木っ端微
塵にする。
 飛び散った木の屑が、倒れた二人の上にはらはらと舞い降りた。
「……言っておくが、私は攻撃をそのまま反射しただけだ。
 手加減という単語は覚えておくべきだな、悠君……」
 そう言いながら姿を現したのは――
「……助かりましたよ。T−star師兄」
「油断だな、神凪遼刃。あの程度の事は予測して然るべきだ……」
 神凪の言葉に、無感動に告げるT−star。
 T−star−reverseの心の中に潜む者、T−star。
 十三使徒の最上位『四大使徒』に名を連ね、『天秤の大使徒』と呼ばれる男。
 善と悪のバランスを取ることを己に使命として課し、それ故に自らの身を闇
に置く。
「面倒なのが出てきたわね……」
 かつてT−starと戦ったことのある綾香は、思わず舌打ちした。
 T−starには、『反転能力』がある。
 文字通り、事象の性質を反転させる能力である。
 例えば今のは、衝撃波の力の向きを反転させ、悠に叩き返したのだ。
 しかし、悠は不敵に笑う。
「なーに。これで三対三。ようやく互角の勝負になったってもんだ」
「そうですっ! それに、わたし達三人の必殺技『親子三人三つの心が一つに
なれば愛の力は百万倍・らぶりーサンシャイン』を使えば、あんな人達ちょちょ
いのちょい、だもん!」
「……いやあの、出来ればそーいう勝ち方は遠慮したいんだけど……」
 盛り上がる綾芽に、綾香はぼそぼそと呟いたが、勿論届いていない。
 だが、別の方角からの声が、綾芽の盛り上がりに水をぶっ掛けた。
「残念ながら、僕たちは悪役ですからね。
『互角の勝負』なんてしないんですよ……」
「……葛田!」
 そう。
 茂みを割って現れたのは、葛田玖逗夜であった。
 彼もまた十三使徒の一員、それも最古参の使徒である。が、何故か立場はずっ
と見習いであり、未だ正使徒として認められていなかった。
「四対三、って事か。だがこれくらい……」
「まだですよ」
 悠の言葉を遮り、指を鳴らす葛田。
「戦闘員のみなさーん!!」
「イーーーーーーッ!!」
 奇声と共に、黒い人影が次々と飛び出す。
 バク転バク宙トンボ返りはお約束であった。
『塔』で支給されるものによく似た黒い戦闘服姿の男たち、およそ十数人。
 十三使徒のヒラ使徒たちである。
 彼らは、忽ち綾香たちを包囲した。
「ま、こういう訳ですよ」
「くっ…」
 思わず歯ぎしりする悠。
 その様子を無表情で眺めつつ、T−starは葛田に近付いた。
「……葛田君。私は神凪君を連れて撤退するつもりだったのだがな。
 正使徒の一部隊を動かしてまで、ここで勝つ必要はあるまい。
 元々、これは神凪君の遊びだ。導師も成功など期待していない」
「勝てる所で勝つべきだと思いませんか? T−star師兄」
「私たちがここで勝ってしまうと、ベネディクトの仕事が無くなる」
「…………」
「それが狙い、か?
 ……まあ、私もあの魔族は好かん。君の好きにするがいい」
「感謝します」
 葛田はT−starに軽く頭を下げると、綾香たちの方に向き直った。
「で、どうします? 降伏しませんか?
 降伏すれば『祐介』の電波で支配されるだけですが、抵抗するなら、戦闘不
能にした後で電波です。
 絶対、前者の方がお得だと思いますよ」
「……大して変わらないと思うのだけど」
 油断なく構えながら、綾香が返す。
 悠が続けた。
「お前らが出てきたって事は、やはり十三使徒が動いているんだな?」
「そうですよ。隠しても意味が無いから言っちゃいますが。
 出来れば、僕もT−star師兄も出張りたくはなかったんですがね……ま、
神凪師兄を失う訳にはいきませんから。
 では――」
「そうと聞いたからには!!!」
 突然――
 何処からか、叫び。
 それは、葛田の口上を強引に遮った。
「ここは、俺たちの出番だっ!!!」
「……あれは!?」
 神凪が声を上げた。
 彼の視線の先――体育館の屋根の上に、四つの影がすっくと立っている。
 そして、それぞれが、びし! とポーズを決め、大声で名乗りを上げ始めた。
「俺は不死身の猛虎、『ジャック・イン・アズエル』秋山登!!」
「僕は静かなる狼、『リネット・エース』ゆき!!」
「天空を翔ける鷹、『キング・オブ・エディフェル』風見ひなた!!」
「この場にはいないが心は一つ、闇に潜む梟『ブラック・カオリ』まさた!!
 そして俺は、誇り高き獅子『クィーン・ザ・リズエル』ジン・ジャザム!!
 五人揃って……」
「「「「エルクゥ同盟!!!!」」」」
 どどぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん!!!!!(雷鳴)
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 その様子をぼーっと見守る十三使徒たち及び親子三人組。
 バンクシーンなので割り込めないのである。
「学園に闇をもたらすダーク十三使徒! 俺たちエルクゥ同盟が来た以上、も
う勝手はさせねえぜ!!」
 びっ!
 葛田に指を突きつけ、言い放つジン。
 …忘れている人もいるかもしれないが、元々エルクゥ同盟の目的は十三使徒
の悪行を阻止することだったのである。いやマジで。無意味にギャグをやるの
が目的ではなく。(作者注)
「……なかなか、思い通りにはいかないものだな」
「………」
 ぼそりと呟いてきたT−starに、葛田は無言で肩を竦めた。


「と、言う訳で! 残るはお前らだけだっ!」
 空白二行で戦闘員たちを全滅させると、エルクゥ同盟と綾香たちは、神凪、
T−star、葛田、祐介(偽)の四人に迫った。
「くっ、また手抜きをしてからに……。
『祐介』!!」
「……」
 神凪の命令に応え、電波を放とうとする祐介(偽)。
「させるかよっ!」
 すかさずジンがロケットパンチを向ける。
 ――その時。
「うっ……ウッ……ガァァァァアアアアアアア!!??」
 突然、祐介(偽)が苦しみ始めた。
 頭をかきむしり、獣のような声で苦悶の叫びを上げる。
「何だ!?」
「……いかん!」
 唯一事態を理解した神凪が、小さく叫んだ。
 T−starがあくまで冷静な声で問う。
「どういう事だ?」
「あの『祐介』には、戦闘能力を高めるために下級妖魔を憑依させていたので
すよ。
 しかし、適合が完全ではなかったのか……妖魔の力が暴走している!」
「……!」
 それを聞くと、T−starは素早く身を翻した。
 一瞬遅れて、神凪と葛田もそれに続く。
「あっ、待ちなさ……」
「――危ないっ!」
 後を追おうとした綾香に、綾芽が飛びついた。
 その瞬間――
 祐介(偽)の体が膨張し、爆裂した。


 二年部校舎「エディフェル」の屋上。
 先程まで戦闘が繰り広げられていた場所を見下ろせる位置に、二人の少年が
いる。
 白と、黒。対照的な服装をした二人である。
 白いコートを纏った少年が、口を開いた。
「……さっきの『祐介』は、一体なんだ?」
「何だと思う? Rune……」
 黒い戦闘服――十三使徒たちが着ていたものと似ているが微妙に違う、『塔』
の支給品だ――を身につけた少年が、逸らかすように言う。
 Runeは数秒、沈黙した後で答えた。
「天人の魔術による産物じゃねえな。
 ……異世界の技術か? 体育祭の時、てめえが召喚したバケモノに関係ある
んじゃねえか? ハイドラント」
「……そこまで知っていたのか」
「いや。いま知った」
「………」
「ま、そうだろうと推測はしてたがな。
 いいのか? このくらいの事は、広瀬――お前の監視任務を帯びたあいつも
遠からず知る。
 いずれ、『塔』に報告が行くぜ」
「構わん。そうなればむしろ好都合だ。私のプライオリティが上がる」
「危険視の度合いとセットで、な」
「その辺の匙加減には配慮するさ。
『塔』がお前に、私の暗殺命令を出したりすると困るからな。
 ……今は」
「……………」
 Runeはちらりとハイドラントに視線を投げかけ、そして肩をすくめると、
踵を返して歩き出した。
「どこに行く?」
「講義さ。次はシンディ先生の英語だからな。出ない訳にはいかねえ」
「そうか。……私も行こう」
「あん? お前、次の講義は休講なんだろ?
 担当の千鶴先生が、怪我人の世話で忙しくて来れないってんで」
「いや。篠塚教師に呼び出されていたのを思い出した」
「呼び出し? なんでまた?」
「進路指導だ」
「……個人授業ですか?」
「………何を考えているのだ、お前は」


 その頃、保健室。
「ジンくーん、千鶴先生の特製病人食よ! 全部食べてね!」
「……ピンチの後にまたピンチ……フッ、これが俺の人生か……(涙)」
「ええい、マッサージはもっと丁寧にやりなさい、美加香!
 僕は怪我人なんですよ!」
「怪我人なら怪我人らしく、後ろ回し蹴りなんかしないで下さいよぉぉぉ!!」
「梓ぁぁぁぁぁ! 俺を殴ってくれぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「……ほんのちょっとでもあんたの心配なんかしたあたしが馬鹿だった。
 土星の向こうまで飛んでいけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
「ゆきちゃん、大丈夫?」
「ありがとう、初音ちゃん。……ああ、僕だけは普通に幸せだ。『普通の幸せ
を手に入れるのがいちばん難しい』……父さんがあの時に言った言葉の意味が
いま分かったよ……」
 ……そこは既に、カオスの支配する空間であった。
「元気だな、あの連中……爆風をモロに食らってたくせに……」
 呆れたような感心したような口調で、悠が呟く。
 彼は爆心地から離れていたせいで、大した怪我は負わなかった。
「ほんとだねー。
 あ、風見さんすごい。ウエスタンラリアット!
 ……でもあの腕、さっきまで折れてなかったっけ?」
 呑気に見物している綾芽。
 実は、一番酷い怪我をしたのは彼女だったのだが、芹香に治療魔法を掛けて
もらったお陰で、早くも回復していた。
「………」
 綾香は……無傷だった。
 先程から一言も口にせず、沈黙している。
 普段、快活な彼女がそうして黙り込んでいると、なんとも言いようのない雰
囲気が辺りに漂う。
「ママ……どうしたの?」
 先程から声を掛けようとしていたものの、雰囲気に気圧されて出来ずにいた
綾芽だったが、遂に意を決した。
「どこか怪我してるの?」
「……………………の……」
 綾香の口から、ぼそぼそと声が洩れる。
「え?」
「どうして……あんな事……したの」
 辛うじて、綾芽は綾香の言葉を聞き取った。
 ――あんな事。
 祐介(偽)が爆発した時、綾芽は綾香を庇い、盾になった。
 その為、綾香は無傷だったが、綾芽は負傷したのである。
「どうしてって……」
 困惑する綾芽。
「だって……当然でしょ?」
「……何が当然なのよ」
 僅かに震える声で、綾香は問い返した。
「だって……それは……」
 逡巡し、綾芽は言葉を捜す。
 やがて、それは見つかった。
 大きく笑い、告げる。
「だって、ママだもの。助けて当然でしょ?」
「っ……!」
 綾香の顔が、歪んだ。
 まるで、激痛を感じたかのように。
「ママ?」
「いい加減にしなさい!!」
 だん!
 綾香は叫び、拳で壁を殴りつけた。
 綾芽がびっくりしたように目を見開く。
「勝手な事ばかり言って……勝手に甘えてきて……勝手に私を庇って……」
「マ……ママ…」
「ママじゃないっ!」
 叩き付けるように、綾香は怒鳴った。
 びくりと震える綾芽。
 綾香の言葉は、止まらない。


「私は、あなたのママなんかじゃないのよっ!!!」


 ばんっ!
 廊下を歩いていた彼女の数歩前で、突然扉が開いた。
 足を止め、そちらに目を向ける。
『保健室』
 その扉のプレートを彼女が読み取った直後、一人の少女が飛び出してきた。
 そして……当然ではあったが、彼女とぶつかる。
「ごっ……ごめんなさいっ!」
 こちらの顔を見ることなく、少女はそう言うと、彼女が歩いてきた方へと走
り去っていった。
「…………」
 落としたファイルを再び腕に抱えながら、彼女は少女の背中を見送る。
 誰かがその顔を見ていれば、瞳の中に、僅かな憐憫の色を見出しもしたろう
か?
 何にせよ、彼女――篠塚弥生はすぐに立ち上がると、呟き一つ洩らす事なく、
その場から歩き去った。


「気が済んだか?」
 窓際に立ち、黙って一部始終を見ていた悠がそう口にしたのは、綾芽が保健
室を飛び出した後、時計の秒針が三周ほどしてからの事だった。
 ベッドの上に腰掛けた綾香が、呻く。
「……どういう意味よ」
「自分でもよく分からない苛立ちを、よく分からないまま怒鳴り散らして、そ
れで気は済んだか……と、聞いている」
「………」
 綾香は、沈黙した。
 ――その通りだった。
 綾芽のような態度で接してくる人間というのは、綾香にとって全く未知だっ
た。そのために、感情の整理をする事が出来ず、苛立ちばかりが募り、そして
それが先刻の一件で爆発してしまった。
「……分かってた」
 ややあって、綾香が呟いた。
 小さく、弱々しい声で。
「分かってたのよ……綾芽が甘えてくるのは、不安だったからなんだって事は。
 自分が誰なのか、どこから来たのか、はっきりと分からなくて……私たちし
かすがるものがなくて……だから、無心に甘えてくるんだって」
「…………」
「でも、分からないのよ。どう接していいのか。私、あんなに、無防備に自分
を委ねてくる人間に会った事なんて、今までに無かったから……。
 だから……さっきも、庇ってくれた事に感謝していたのに……私は……」
「…………」
 悠は、黙って聞いていた。
 何か言ってやりたい。だが何と言ってやるべきか……。
 ややあって、口を開く。
「……甘えるって、どういう事だと思う?」
「………」
 困惑の色を浮かべる綾香。
 悠はゆっくりと語り始めた。
「甘えるってのは、親が子供に甘える場合もそうだし、恋人に甘える場合もそ
うだが、つまり一人で立てないから他人に寄りかかるって事なんだよな。
 勿論、ずっと甘えていては駄目だ。自分一人では何一つ出来ない人間になっ
ちまう。
 でも、子供は、一人で立つ術を知らない。
 綾芽は、子供じゃないが……子供と同じだ。記憶が無いから、この世界の事
も、自分自身の事すら、よく分からない。一人で立てないから、必死に何かに
しがみつこうとしている。さっきお前が言った通りさ。
 そんな子に、何をしてやればいいのか……」
「…………」
「支えてやればいいんだ。一人で歩けるようになるまで」
「…………」
 綾香は、黙ったまま顔を伏せた。
 悠も、口を閉ざす。
 隣の喧騒を聞きながら、二人は暫し、沈黙を続けた。
 ……五時限めの終了のチャイムが鳴る。
 その余韻が消え去った頃、綾香はようやく口を開いた。
「私……どうすればいいと思う?」
「どうにかしてやりたいのか?」
「……うん」
「そうか……」
 悠は小さく笑うと、続けた。
「まずは、綾芽を探して……頭を撫でてやったらどうだ?」
「……うん」
「その次は……綾芽の記憶を取り戻す手伝いだな」
「! ……うん。そうね!
 よしっ!」
 勢いよく立ち上がる綾香。
「行くか?」
「うん。
 ……有難うね、ゆーさく」
「気にするな。
 ……ま、その、何だ」
「?」
「まーそのー……」
 悠は、あさっての方を向いて、呟くように言った。
「お前が誰かに甘えたくなった時は、さ。
 俺に寄りかかっても、いいから……」
「…………」
「そ、そういう事だから――」
 早口に言い募りながら顔を戻した悠は、思わず息を呑む。
 綾香の顔が、近くにあった。
 それこそ、息が掛かりそうなほど。
「ゆーさく……」
「あ、綾香……」
 声が上擦るのが、自分でも分かった。
 綾香が、ゆっくりと顔を近付けてくる。
 それにつられて、悠も顔を寄せようとして――
「だっ!?」
 死角から飛んできた平手で、側頭部をはたき倒された。
「なっ……何すんだっ!」
 頭を押さえ、食って掛かる悠。
 綾香は腹を抱えて笑っていた。
「まだまだ甘いわよ、ゆーさく!
 そんなんじゃ、私に甘えて貰おうなんて十年早いわね!」
「あ〜の〜な〜……」
 軽い脳震盪を起こしてふらつき、壁に寄りかかりつつ、悠は恨みがましい声
を上げる。
「お前、そーゆー男の純情を弄ぶよーな事をして……」
「――ありがとう」
「いいと思ってるのかって……え?」
 風邪のように素早く近付いた綾香が、そっと、悠の頬に唇を触れさせ――
 そしてすぐに離れ、踵を返した。
「それじゃ、行きましょ」
「え?」
「綾芽を探しに!」
「お…おう!」


 そして。
 二人が出ていった後――


「もう、ジン君たら。食事中に寝たりしたら駄目じゃない」
「………(死)」
「美加香、紅茶とメロンとドリームキャストを買って来なさい。
 勿論これはお見舞いだからお前の金で」
「そんな無茶なっ!」
「梓っ、やっぱり地球は青かったぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
「今度はイスカンダルまで送ってやるぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」
「ゆきちゃん、何かして欲しいことある?」
「初音ちゃんが側にいてくれれば、それで……」


 残された保健室は、未だカオスだった。




                          <後編に続く>