人里から離れた、余人の入り込まない空間。 ささやかな神域。 長い時にさらされた建造物はそこにあるだけで威厳を示し、ただ静かに、人の歴史が流 れ、移ろい行く様を見守り続ける。 そこを包むのは静寂。 木々が風にそよぐ音。 鳥達のさえずり。 やかましい蝉の声。 そういった音は確かに聞こえてくる。 だがそれでも、この空間は日差しの中で清涼を伝えてくる。 人が忘れつつある、自然との調和がもたらす涼が、確かにここにある。 「んあ……」 その神殿。 この九鬼(くかみ)神社の住人である少年は、平机によりかかったまま寝返りをうった。 机の上にはこの神社の収支を記した台帳が、開かれたまま載せられている。 財政は逼迫している、と言うほどではないが、あまり裕福とは言えないようだ。 さもありなん。 この神社は少々人里から離れている。 さりとて特徴もなく有名でもないこの神社を、わざわざ訪れるような物好きな観光客は 極めて希な存在だ。 とは言ってもある程度の数の――もしくはスポンサー足り得るほどの――氏子さえいれ ば、それなりにはやっていけるのが神社というものである。 少ない収入をやりくりしながら、今は夏祭りに向けて忙しい時期だ。 この近辺では最大のイベントであり、同時に神社にとって大きな収入源でもある。 このイベントを成功させるか否かが神社の経営状態に大きく影響を与える、是が非でも 成功させなくてはならない祭りなのだが、突然問題が起こってしまった。 つい先日、巫女として勤めていた女性が家庭の事情により、やむなく辞職したのである。 今は一人でも人手が欲しいところだが、金銭的余裕はともかく、これから祭りまでの期 間で巫女としての教育を施している時間的余裕は無い。 そういう事情もあって、少年はこれまでほとんど縁の無かった家業の手伝いをしていた のだが、馴れない仕事の連続に疲労が溜まっていたのだろう。 特に人付き合いが苦手の部類に入るこの少年には、氏子の家を巡るのはかなり苦痛だっ たらしい。 書き込みはまだ途中だが、少年が目覚める様子はない。 と、自然が溢れる山々に包まれたこの静かな神社に、一台のバスが近付いて来る。 修学旅行などでよく使われる、40人以上乗る事が可能な大型のバス。 そのバスは舗装もされていない狭い山道をゆっくりと進み、一の鳥居を望む階段の下に 停車した。 「おっしゃ〜!! ようやく着いたなぁ。ジッとしてるのはやっぱ性に合わへんわ」 昇降口が開くと同時に小柄な人影が飛び出し、大きく伸びをする。 「それじゃ各自荷物を持って……え〜と、そうね。階段の上に集合。責任者の方に挨拶す るから粗相の無いようにね」 リーダー格の少女が指示を出し、車内にいた少年少女達はそれに従って行動を始める。 「ちょっと来夢! 今の聞こえてた?」 「バッチリ問題あらへん! そっちこそさっさと出てきいや。これ以上待たされたら、オ レ爺さんになってまうわ」 「……見た目はお婆さんですよね。きっと」 眠た気な瞳の少年の口から、思わず本音が漏れる。 「もったいね〜よな〜、あの容姿で男ってのは。神への冒涜だぜ」 「T! YOSSY! 今なんぞ言うたか!?」 「……いえ。何も」 「は〜ん? 気のせいじゃね〜の〜?」 夢幻来夢の追求にT−star−reverseは言葉を濁し、YOSSYFLAME はあっさりとすっとぼけてみせる。これは性格の差なのだろうが、今の心情は似たような ものだ。 ――地獄耳。 内心舌を出しながら、さっさとバスを降りて階段を登り始める。 「あ! 待たんかい!! 今オレはこの耳でしっかり聞いてんからな!」 並んで登っていく二人を慌てて追う来夢。 それを見て、格闘部主将――来栖川綾香――がため息を吐いた。 「まったく。ちょっと弛んでるんじゃない? せっかくこれから合宿が始まるっていうの に……」 「喧嘩するほど仲が良いって言いますし、それほど心配すること無いですよ。きっと」 いつものように晴れやかな笑みを浮かべてそんな事を言う傍らの小柄な後輩――松原葵 ――に、綾香が胡乱な瞳を向ける。 「葵。それ、ちょっと違うんじゃないかと思うけど……」 「え? そ、そう……ですか?」 「ま、いいけどね。さ、私達も行きましょ。あいつらだけ先に行かせたりしたら、何しで かすかわからないしね」 「あ、はい!」 先行した者達を追うように、車内から少年少女達がぞろぞろと姿を現す。 部員40数名。 Leaf学園最大級の規模を誇る格闘部の合宿が、これから始まろうとしていた。 格闘部合宿編『祭りの始まり』 ザワザワザワザワ……。 「ん……?」 表から聞こえてくるざわめきに、寝入っていた少年が目を覚ます。 「………………ゲ」 寝ぼけ眼をこすりつつ周囲の状況を把握した時点で、そんな蛙がつぶれた時のようなう めき声を上げてしまった。 墨がたっぷりついた筆が転がったせいだろう。先程まで書き込んでいた台帳の用紙に、 ミミズがのたくったような跡が付いてしまっている。塗りつぶされてしまった数字は無く、 記入した部分は無事……ではあるが、これをそのまま使う事は出来そうに無い。 「……書き直し、だな。これは」 情けない表情で呟き、少年はその用紙を丸めてごみ箱へと投げ込んだ。 筆などという馴れない筆記具を使用するのは神経を使う。 肩の凝る作業をやり直さねばならないと思うと、少しうんざりした。書き込まねばなら ない量は、意外と結構多いのだ。 ――さて……。社務所に姉貴が詰めてるし、問題はないと思うが……。 「様子を見に行ってみるか」 これはそれほど急ぐ仕事でもないしな。と、自分に言い訳しつつ、立ち上がる。 参拝客かとも思ったが、少し様子が違うような気がする。 先程も言ったが、ここは特別見るようなものがある訳ではない。参拝客は地元の人間が まばらに来る程度で、集団でやってくるという事は滅多に無い。 ――変な客じゃなきゃいいが……。 うろたえる姉の姿を明確に思い浮かべながら、少年は神殿から外へと踏み出した。 変な客、かどうかはともかく、少年の予想通り、彼の姉は困惑しながらオロオロしてい た。 「巫女のお嬢さん。今日の仕事はいつまで? 仕事終わったら俺と遊びに行かない?」 「え……えと……あの……」 「あ、自己紹介しなくちゃな。俺の名前はYOSSYFLAMEって言うんだ。お嬢さん のお名前は?」 名前を尋ねつつ、さりげなくその片手を両手で包む。 真摯な態度で顔を覗き込むYOSSY。 俯きがちな少女の顔が、途端に真っ赤に染まった。 ――か〜。初々しいね〜。 男として嬉しくなる。 「………………です」 「え?」 ボソボソとした返答。 だが声が小さすぎたせいで、ほとんど聞き取れなかった。 「…………はじめ、です」 「はじめちゃんか〜」 コクンと肯く。 口を動かしていたから名字も言っていたようだが、声が小さかったせいでそこは聞き取 れなかった。 が、とりあえずはそれで良しとする。 「ここでの仕事は長いの?」 「はい……それは…………」 「あ、俺達合宿でサ。これからしばらくこの神社にやっかいになるんだ。そのあいだに仲 良くなれるといいね」 少し戸惑いつつ、はじめはまたコクンと肯いた。 「はい……。そうですね」 微笑む。 蕾が綻び、花開くように。 綾香や葵が日向に咲く大輪の花だとしたら、はじめは日陰にひっそりと咲く儚げな花。 そんなイメージが湧く。 個人の好みはともかく、男に何故か『守ってやらなくては!』と思わせてしまう、そん な雰囲気があった。 「今はちょっと忙しいんだけどさ、5時までの練習が終わったら少し自由時間があるんだ。 その時また話をしに来ても良いかな?」 「え……、でもその時間は……」 「あ、もう帰っちゃってる?」 「いえ、そんな事はないんですが……」 「って貴様、一体何をやってるかぁ!!」 突然脇から怒声が上がり、一瞬後、高く掲げた足がYOSSYの脳天に振り下ろされる。 ズダンッ!! 鋭い音が響いた。 「………………あれ?」 いつのまにか空になった手を見つめ、YOSSYが不思議そうに手をヒラヒラと振る。 「いきなりお客様に失礼な事をしちゃいけないと思うよ?」 「……お見事」 声の方に視線を向ければ、さっきより少し離れた位置に立ち襟元を正すはじめと、その 足元に転がっている少年の姿が飛び込んできた。 先程まで神殿で書き物をしていた少年。それに関してはYOSSYの預かり知らない事 だ。 が、その顔に見覚えがある事に気付く。 「ありゃ? お前悠か?」 「おお。久しぶりだな」 少年は鷹揚に肯き、挨拶を返した。 「……立てば?」 「背中が痛くて、今ちょっと無理っぽい。受け身、取り損ねた」 「御免ね。急だったから……」 「手加減できなかったか?」 悠朔の言葉に少し躊躇したが、はじめがコクンと肯く。 「なんだ。はじめちゃんと知り合いなのか? ってことはお前ん家この近所?」 「……ここ」 「あん?」 「いや、だからここが俺の家」 「ここって……この神社がか?」 ひっくり返ったまま、また朔が肯く。 「………………マヂ?」 「こんな事で嘘言ってもしょうがないだろうが。……イツツ」 背中をさすりながら、なんとか立ち上がる。 「大丈夫?」 心配そうな顔のはじめに、「ああ」と肯く。 「で、お前はなんでこんなところに? 観光か? この近所には見るものなんてあまり無 いと思うが……」 「え……?」 「ん?」 頓狂な声を上げたはじめに、二人が視線を向ける。 「今日お客様がお見えになるって……言ってあったよね?」 「ああ。巫女の修行にってやつだろ? それは聞いているが……」 「あ……。それもなんだけど、朔が行ってる学校の格闘部の方が、合宿に来られるんだけ ど……」 「なぬ?」 「って言うか、もう来てます。ホラ」 YOSSYが指差す方向を見れば、ちょうど石灯籠の並ぶ参道を抜け、部の面々が木々 の死角から姿を現したところだった。 「あ、すみませ〜ん。こちらの責任者の方は……って、あれ? ゆーさく? こんな所で そんな格好してなにやってんの?」 浄衣姿の朔と、巫女装束のはじめを見て近付いてきたのだろう。 その浄衣を着ている主が同級の親しい人間と知って、綾香が目を丸くする。 「……俺が自分の家に居るのが、そんっなに不思議なのか?」 「え?」 「あ、はじめちゃんこんにちは〜! 今年もまたお世話になりますね!」 「いらっしゃい、ひづきちゃん。こちらこそ、よろしくお願いしますね」 「今年はなんか昌兄も付いてくるなんて言い出すし、いろいろご迷惑かけると思うけど、 アレはアレでいろいろ雑用に使えるから、遠慮無くコキ使ってね!」 「あ、あはは……。私は、ひづきちゃんにここは自分の家だと思って欲しいな。だから迷 惑をかけるなんて言わないでくれると嬉しいんだけど……ダメかな?」 対応に困りながら微笑むはじめの前方。格闘部の群衆の中で、佐藤昌斗がワカメ涙を流 していたりするのだが、まあ余談である。 <主……> その姿に、知性持つ彼の愛刀運命(さだめ)が呆れているのも、余談である。 「ひづき……って待て! もしかして修行に来る巫女ってひづきのことか!?」 「え? うん。隆雨神社から来られた隆雨ひづきちゃんだけど……」 「あっれ〜? 悠さん? どしてこんなとこに居るの?」 「何故みんな俺に同じ事を聞く!?」 「なぁ悠。はじめちゃんのこと俺に紹介してくれねーのか? さっきから待ってんだけど」 「ちょっとゆーさく、ここがあなたの家ってどういう事よ?」 「ねえ朔? 朔はひづきちゃんとお知り合いなのかな?」 「あのぉ、綾香さん。こちらの責任者の方にお会いしないといけないんじゃ……」 「つまり何がどうなってるんです?」 「さあ? オレにわかる訳あらへんやん。多分あそこに悠がおるからややこしなっとんの とちゃうかと思うけど」 部の全員が抱いているであろう疑問を口にしたディアルトに、来夢が妙に冷静に答える。 「とにかく落ち着かん事には話にならへんのとちゃうか?」 「じゃ、そうしましょう。葵さんも困ってらっしゃるようですし」 しかし場を納めようとディアルトが進み出るより早く、 「いい加減にしなさいっ!!」 鶴の一声が響き渡った。 ピタリと会話が止む。 「……好恵」 「坂下か……」 その声の主に視線を向け、名前を呟く。 腕組みをして不機嫌そうに仁王立ちしている親友の姿に、綾香は照れた笑いを浮かべた。 「各々勝手に話をしようとするから話が進まないんでしょ? 順番に話しなさいよ」 「そうね……。それじゃ、個人的な話は後に置くとして、この神社の責任者の方に会いた いんですけど」 「目の前に居る」 はじめに話し掛けた綾香に、朔が横からボソッと呟いた。 「え?」 「今お前の目の前に立っているのが、この九鬼神社の宮司だ」 「……そうなの?」 「あ、はい。……一応」 コクンと、はじめが肯く。 「さっきから何度も聞かれているからついでに言っておくが、俺の身内で双子の姉だ」 「ええ!?」 その場に居た全員の目の色が、意外から驚愕に変わる。 「パッと見、性格は似ても似付かんな……」 「でも全体的な顔の作りが似てないか?」 「釣り目と垂れ目……どっかの誰かみたいだな」 勝手な会話が飛び交う中、YOSSYが朔の肩に腕を回した。 「という訳で、今日から俺とお前は兄弟だ」 「幸せにする覚悟があるなら、熨斗付けてくれてやるが?」 「う……」 YOSSYとしては冗談のつもりだったのだが、素で返されてしまった。 顎に手を当て、考え込む。 「う〜む……お前と義兄弟になるのはともかく、性格良さそうだしはじめちゃんさえ良か ったら……でも会って間も無いしな〜。お互い全然知らない訳だし。いや一目会ったその 日からって言葉もあるよな?」 「姉貴がどう思っているかも問題だな?」 「そっちはまずお友達から始めましょうっていう約束を取り付けたからな。まず一歩前進 ってとこだ」 「お前相手だったら即家族公認だ。頑張れよっ」 「……まさかと思うが、お前本気で言ってね〜よな?」 その言葉に朔が笑みを浮かべる。 「多少は本気かもな?」 「むぅ」 「残念な事に綾香の話だと本命が居るらしいからな。それが誰かまでは教えてくれなかっ たが……誰だ? 一応目星は付いてるが、是非聞いてみたい」 辺りを憚り一応小声で、しかしニヤニヤと笑う朔の前で、YOSSYは握り拳を固めた。 「……あんのおしゃべり女」 YOSSYの言うところのおしゃべり女は、今は挨拶をするのに忙しかった。 「格闘部主将を務めてます、来栖川綾香です。これから一週間よろしくお願いしますね」 「貴方が綾香さんですか。弟がいつもお世話になっているって伺ってます」 「そんなことないわよ? こっちこそ面倒………………見てるわね」 文脈としてはおかしいが、言いたい事はわかる。 「御免なさい。喧嘩は良くないって、いつも言ってるんですけど……」 「あ、でも私だっていろいろ世話になってますし、これはお互い様ですね」 「そう言って頂けると助かります。……それでは、まず荷物を置いた方がよろしいですよ ね?」 「そうですね。そうして貰えますか?」 「では、女性の方は社務所の方をご案内しますから……私に付いて来て下さい。朔。男性 の方達を道場の方へ案内してあげてね」 「ああ、わかった」 姉の言葉に肯き、彼女達が社務所の中へと消えていくのを見送る。 「ではこちらも移動を……」 そこまで言って、ふと言葉を止める。 「ん? ……昌斗?」 「え? 何?」 訝しげな表情で呼びかけられた昌斗が、少し不安そうな顔になる。 「お前もあっちじゃないのか?」 言いながら社務所の方を指差す。 目を向ければ、丁度女性達の最後尾が建物の中に入るところだった。 「どうして?」 馬鹿にされたと取ったのだろうか? 昌斗の目に剣呑な光が宿る。 が、朔はそれに頓着しようとしなかった。 「いや……。確かお前は格闘部員じゃなかったよな?」 「そうだけど……」 「なら、修行に来たんだろう? 修行と言っても、どうせ俺達の手伝いなんだが……だっ たら社務所に泊まってくれた方が、何かと都合が良いはずだ」 「あ……いや、確かに俺はひづきの保護者として来た訳だけど、出来れば格闘部の合宿の 方に出たいんだ。……マズイかな?」 「いや。それならいい。じゃ、案内するから付いてきてくれ。道場は社務所の裏手にある。 ……ああ、それと」 思い出したように付け足す。 「参道の真ん中は歩かない方がいい。そこは神の通り道だ。罰が当たるかも知れんぞ」