Lメモ異聞録vol.4 「修羅と鬼神」『戦う理由』"後編"  投稿者:悠朔
 大の字に転がったまま、空を見上げる。
 夕日に照らされ、赤く染まる雲。
 赤と言われると血を連想するが、この赤はそんな生々しいものではない。
 そこまで毒々しい色をしていない。
 どちらかというと幻想的な、赤。
 その夢の中に居るような光景が、起き上がるという気力を萎えさせる。
 雲が音も無く、風に流されて行く。
 ――この赤に近い赤は、いったい何の色だろうか……。
 そんな事を考えながら、ボンヤリとそれを眺めているあいだに、どんどん時間は過ぎて
いく。
 と、突然人影が刺し、視界から太陽を覆い隠した。
 逆光の中で浮かび上がるシルエット。
 チェックのYシャツにGパンというラフスタイルの、竹刀袋を背負った痩せた男。
「……生きてるか?」
「ああ……」
 問い掛けてきたその男――YOSSYに、朔はおざなりに答えた。
「怪我、平気か?」
「ああ……」
「そっか」
 一呼吸置いて、また問う。
「なぁ。少しはすっきりしたか?」
「ああ……」
「なら大丈夫だな」
「ああ……」
 少し顔を顰める。
「……お前、人の話聞いてるか?」
「ああ……」
「ホントかよ」
「ああ……」
 不信そうな言葉への答えも、変わらず単調だった。
 今度は額に青筋が浮かんだ。
「もしかして喧嘩売ってんのか?」
「……いや?」
「だったらせめて、もうちょっとまともに答え返せ」
「ああ、そうだな。……これからは気をつける」
 それきり、二人とも沈黙する。
 風が、吹く。
 丘の上を撫でるように、やわらかい風が。
 しばらく二人ともぼんやりとしていたが、ふと気付いたように、朔が問い掛けた。
「YOSSY」
「ん?」
「なんでお前がここに居る?」
「居ちゃ悪いか?」
「別に……。悪いとは言ってないだろ?」
「ならいいだろ?」
「………………そうだな」
 肯く朔の態度に、フゥっと、YOSSYがため息を吐いた。
「ホント言うとな、一発ブン殴ってやろうと思ったんだよ」
「……なんで?」
「綾香。泣いてたぞ」
「……あっそ」
「あっそって……お前な。いったい何考えてんだ?」
「いろいろ」
「……具体的には?」
 声に苛立ちが混じっていた。
 先程までのやりとりとは別の理由に起因する、その感情。
「低迷する日本経済と、温暖化に伴う異常気象の激化についての科学的考察」
「ざけんなっ!」
 怒鳴られて、とりあえず上半身を起こす。
「俺は大真面目……」
 言葉の途中で硬いものが肉にぶつかる鈍い音が響き、朔はまたひっくり返った。
「……確か俺、怪我人のはずなんだが」
「女の子泣かす奴には当然の制裁だろ?」
 ――だからって顔面に蹴りを入れるか? パンダになったらどーすんだ……ったく。今
本気で目の前に星が浮かんだぞ。
「……後頭部と鼻が痛い」
「我慢しろ。痛みがあるのは生きてる証拠だ」
「あのな……」
 呆れる朔の中で、不意に笑いが込み上げて来た。
 それを押えるつもりも、また必要もない。
 ひっくり返ったまま、朔は声を上げて笑い出した。
「YOSSY、お前ってさぁ……いい奴だよなー」
「なんだよ薮から棒に」
「友達のために、人を蹴り倒すぐらい怒ってるんだろ?」
「……まぁ、な。そういうことになるか。面と向かって言われると恥ずいけど」
「そういうのをいい奴って言うんだろ。……多分だけどな」
 言いながら倒れたまま身体を縮め、よっ、と掛け声を掛けて、足の反動で立ち上がる。
「れ?」
 カクンと、膝から力が抜け、朔はその場に崩れた。
「おい! 無理するな。大丈夫か?」
「あ、ああ。大丈夫。……膝に力が入らなかっただけだ」
「まだショックが残ってるんじゃないか? 後遺症が出ないように病院で精密検査したほ
うがいいぞ」
 病院は苦手な場所なので行きたくはないが、心配してくれるのはありがたい。
 フラついたのはさっきの蹴りのせいではないかという気も、しないではなかったが。
「ほらよ」
 朔の隣に座り込み、YOSSYが手に持っていたものを差し出す。
「……なんだ、これ?」
「見ての通りポカリスエット。スポーツ清涼飲料。終わった後でひとっ走りして買ってき
たんだけど、要らんか?」
「……Thanks」
「とりあえず乾杯といこうぜ」
「そんじゃ、ま」
 缶と缶がぶつかる音。
 その青い缶のタブを引き起こし、口の中に液体を流し込む。
 甘く味付けされているはずのそれは、やけに苦く感じた。
 多分それは、敗北の味だったのだろう。

 勝負の行方について、深く語る言葉はない。
 朔の渾身の一撃は身体に触れる事はなかったものの、受け止めたジンの大剣を両断した。
 意図せぬ形で最初目的としていた形に持ち込む事が出来た訳だが、武器を所持している
という利を得た後も、結局大勢に変化はなかった。
 むしろそれは予想を外れ、朔に不利でさえあったのだ。
 ジンの腕は鋼鉄に覆われている。
 懐に入り込まれ、刀を鍔元で受けられれば僅かに傷が付く程度にしかならない。
 速攻。
 こういった時のジンの思い切りは、恐ろしいほど良い。
 距離が詰まった後は、一方的な暴力の嵐が吹き荒れた。
 鬼の爪と豪腕に晒され血だるまになり、目に見えて動きは衰え……それでも朔は戦う姿
勢を捨てようとしなかった。
 最後は業を煮やした――あるいは仏心を出したのかもしれなかったが――ジンが朔の胸
に掌打を当て、同時に人の動きを止めるのに充分な雷撃を流し込む事で、ようやく終わっ
たのだ。
「ま、なんだ。……惜しかったよな」
「別に……。力の次元が違い過ぎたからな。惜しかったって言われても慰めにしか聞こえ
んぞ」
 呆れたような朔の口調。
 事実そうだったのだから、彼がそう感じたとしても不思議はない。
「でも最後の時のあれが決まってりゃ、どうなってたかわからなかっただろ?」
「勝負事で、"たら"とか"れば"を言い出したらきりがないさ。それに、俺はあれにすべて
の意地を賭けてた。あれを避けられたら、例え勝っていたとしても、やっぱり俺の負けな
んだよ。……実際負けたんだけどな。俺もまだまだ未熟だったって事さ」
 ――未熟……か。そうだよな。俺、負けたんだよ……な。
 不意に実感が湧く。
 簡単に手玉に取られ、敗北したという実感が。
 足元が急に崩れ、無くなってしまうような異様な感覚。
 寒気がした。
 別に戦闘をして、負けたのはこれが始めてという訳ではない。
 だが今日。
 この戦いは、これまで大切に守ってきた"なにか"を消し飛ばした。
 これまで縋っていたものが、根元から瓦解する。
 突然目の前が暗くなったような気がした。
 震える朔の手に、力が篭る。
 空になった青い缶がひしゃげて、メキメキと音をたてた。
 潰れた缶を握ったまま、地面を殴り付ける。 
「すっきりしたか、だと? するか馬鹿やろ……」
「悠……?」
「実際情けないものだよな。こちらから喧嘩を売って、あっさり返り討ちにされて、挙げ
句にこんなところでノビてたんだからな! 笑えよ! どうせお前だってそう思っている
んだろう!? 違うかっ!?」
 言ってから後悔する言葉がある。
 朔にとって、今回のこれがそうだった。
 それでも、止められなかった。
 言葉を紡げば紡ぐほど、勢いが増していく。
「ああそうだよ! 俺にはお前のような圧倒的なスピードも無けりゃ、セリスのように誰
にも破れない壁を作る事も出来ない。T−star−reverseのように打たれ強く
もない! 綾香や昌斗や浩之みたいな天賦の才もなければ、ジンや岩下、西山さんのよう
な他を圧するだけの力も……無いっ!!」
 悔しい。
 負けた事がではなく、自分自身に力が無い事が。
「……俺は自分の弱さが憎い。……何故俺は、こんなに無力なんだ?」
 両の目から涙が零れた。
「畜生……っ!」
 肩を震わせ、朔は支えを失って揺れ動くその感情のままに泣いた。



 太陽に向かい二組の男女が山を降り、学園の校舎へと向かっていた。
 ハイテンションでジン・ジャザムの周りでしゃべり続けている降雨ひづきと、無言のま
ま並んで歩く来栖川綾香とハイドラント。
 勝負を見つめていた時の興奮をそのまま引きずっているひづきにおだてられ、ジンは乞
われるままに、上機嫌に先程の武勇譚を語り、また彼女の質問に答えたりしていた。
「……とまあそんな訳でな。最後にゃあいつ気絶してやがったんだよ。意識を失っても戦
うってのはご立派と思うけどよ。あれ以上やっても意味無えだろ?」
「気絶しても戦うなんて、そんなことあるんですか?」
「長いこと格闘技とかやってる奴に、たまにあるそうだぜ」
「へ〜。スッゴ〜イ! 戦ってる最中にそこまで観察するなんて、やっぱりスゴイです!
学園最強って言われてるのは伊達じゃないですね!」
「おう! あったり前よ!」
 戦っている最中の心配が大きかったせいか、ひづきのそのはしゃぎようはオーバーなほ
どだ。
「もうYOSSYさんとか昌兄なんか、このまま続けたら悠さんが死ぬかもしれないなん
て、真っ青な顔で言うんですよ。もー私どうしようかと思っちゃいましたよ」
「いくらオレでもそこまでやらねーって」
 苦笑しながらジンは否定したが、それが事実ではなかったことは、三人ともわかってい
た。
 ひづきを除く、三人。
 何度も言うが大剣というものは勢いで対象を叩き潰す武器である。
 寸止めなどという器用な真似が出来る武器では、決してない。
「悠さんが死んじゃったら試験で出そうなところ教えてもらえなくなっちゃうのかな。昌
兄ってしっかりしてるようで何処と無く頼りないからアテにしてたのに…とか、ああそう
したら猫の世話は私がしなくちゃいけないのかな。懐いてくれるといいけど…とか、そん
などうでもいいことばっかり浮かんできちゃって。……なんとかしないとって思えば思う
ほど、ああいう時って何にも出来ないんですよね」
「猫……?」
「はい! 悠さん学校の中庭で、よく小猫の世話をしてるんです。確かゴーストって呼ん
でましたっけ。超ナマイキで、す〜っごい可愛いんですよ」
 ――ナマイキで可愛い?
 どうもジンには理解しがたい感情のようだ。
 仕方が無いので適当に相槌を打っておく。
「へ〜、あいつが……なぁ」
 それを機会に二人は猫談義へと移行していった。
 つい先ほどまで命のやりとりをしていたにしては、場違いなほど平和な会話。
 この学園の生徒の大半はこんな調子だ。スポーツ感覚で喧嘩や決闘を楽しみ、コトが済
んでしまえばただの学生に戻る。
 敗れたとしても、例え大怪我を負ったとしても、それを治す術を持つものが居るためだ
ろうか? 後々まで尾を引くことはほとんど無い。
 だが、それを善しとできない者もいた。
「……どうして?」
「ん?」
 囁くような綾香の問い。
 それを傍らを歩くハイドラントが聞きとがめる。
「どうしてあなた達って、いっつも私に心配かけるのよ?」
 ハイドラントがしばし黙考する。
 綾香は怒っていた。
 今回は無事に済んだが、何故こんな危険な真似をする必要があったのか、と。
 ハイドラントにしても朔にしても、彼らは自分の責任で好き勝手にやっている。その結
果どんな事が起こったとしても、己の責任であると割り切ることができる。
 だからそのせいで綾香に心配をかけるとしたら、原因はひとつしかない。
「……馬鹿だからだろ」
 ハイドラントが出した結論は、単純明解だった。
「………………」
「馬鹿だから物事を上手く治めるなんてことは出来ん。馬鹿だから、他の手段が思い浮か
ばん。結果、事を荒立てずにはおれんという訳だ」
 愛した人――綾香を手に入れるために。
 綾香に相応しい男になるために。
「自覚があるんだったら……なんとかしようとは思わないの?」
「知らんのか?」
 さも可笑しそうに、ハイドラントはニヤリと笑った。
「馬鹿は死ななきゃ、治らん」
「……呆れた」
 本当に、心の底から呆れた。
 それを如実に示す、憮然とした顔。
 その顔を見て、ハイドラントは会心の笑みを浮かべた。
「それはそうとな……綾香」
「?」
「どうして付いていてやらなかった?」
「え?」
「悠だ」
 短い言葉の中に、様々な意味が篭められていた。
 何故意識を取り戻すまで、悠のそばに居てやらなかった?
 何故俺に付いて来た?
 そしてそれらの延長場に位置する、問い。
 ――お前は今、誰を想う?
 綾香は頤に指を当て、一瞬考え込む様子を見せたが、すぐに顔を上げた。
「……見ていたくなかったのよね。ゆーさくが倒れてるとこ。……嫌いになりそうだった
から」
「ふん?」
「それと、あそこに居た中で私の愚痴を聞いてくれそうなのって、あなたしか居なかった
のよ」
「なるほど……な」
 ――今のところは俺の方が優位という訳か?
 見えない。
 わからない。
 人の心。
 それでも、想う。
 例え見返りがなかったとしても、この想いは止まらない。
「……綾香」
「ん?」
「お前は俺のものだ。誰にも渡さん」
 キョトンとした表情を浮かべ、次いで綾香は吹き出した。
「どうしたの? 急に」
「気にするな。ただの意思表明だ」
「気にするなって……あなた無茶苦茶言うわね」
「かもな」
 綾香が仏頂面のハイドラントの横顔を見上げる。
「そうね……考えとく。でも……」
「でも?」
「そう簡単には、捕まらないわよ」
「ああ」
 ――その余裕を、いつか消してやるさ……。
 ハイドラントの口元に笑みが浮かぶ。
 山を下りる四人の視界の中で、太陽が沈もうとしていた。



 日が沈んでしまえば、街灯もない山の上。
 そこは暗闇と、むせ返るような木々の香り。そして降り注がんばかりに輝く星空に支配
された空間になる。
 だがその輝きは、都会の光に弱められたものだ。
 それでも、星々は美しいままに瞬いている。
 涙に曇った視界の、町並みの光と同じように。
 もう涙も笑いも浮かんでこない。
 激情には、いつか冷める時が来る。
「……落ち着いたか?」
 頃合いを見計らったYOSSYの声に、朔は肯いた。
 座り込んで俯いているせいか、すこしくぐもった声。
「ああ……。悪い。……なんか最近、お前にはみっともないところばっかり見せてるな」
「そっか?」
「昨日の夜も会っただろ?」
「ああアレか。……気にすんな。巡り合わせだろ」
「つくづく……なっさけね〜な、最近の俺」
「そだな」
 朔はYOSSYと視線を合わせようとしない。だがその横顔に不満の感情が表れるのは
見て取れた。
「どした?」
 理由はわかっていたが、からかい半分、わざと聞いてみる。
「こういう時って、ちょっとはフォローしようって気になるものじゃないのか?」
「被害妄想で自己嫌悪に陥ってる奴にか? あ、もしかして慰めて欲しかったとか?」
「……意外とキツイんだな、お前」
「相手が女の子だったら優しい言葉のひとつもかけてやるとこだけど、ヤローを慰めても
楽しくねーからな」
 二人して、笑う。
 彼は常にこうだ。
 無意味に自分を飾ったりしない。
 そんなことをしても、いずれ無理が出る事を知っている。
「なあ悠」
「ん?」
「結局お前さ……。なんだってこんな無意味な馬鹿騒ぎ起こしたんだ?」
「……八つ当たり……かな?」
「……ハァ?」
「最近の俺、情緒不安定だっただろ?」
「ああ。……もともとそんな奴なのかとも思ってたけど」
「お前のせいだ」
 これまで逸らしていた視線を合わせ、おもむろに断言する。
「……ハ?」
 一瞬冗談かと思ったが、朔の顔は大真面目だった。
「え? 俺? ……ええ!?」
「……だけって訳でもないけどな」
 慌てるYOSSYからまた視線を逸らし、苦笑を浮かべる。
「言っただろ? 八つ当たりだって」
「……話が見えないんだが」
「七つの大罪の中で、最も罪深いのはなんだと思う?」
 唐突にそんな事を聞く。
「? え〜と、姦淫、暴食、憤怒……あとなんだっけ?」
「傲慢、貪欲、怠惰。それから嫉妬だよ。……よーするに、綾香のまわりをうろちょろす
る奴にヤキモチ焼いてたんだよ」
「……俺と綾香は、男女を越えた友達とかそーいう関係で、別に恋愛感情はないぞ? た
まにちょっかい出すけど」
「知ってる」
「……ちょっかい出すって言ってもまったく相手にされてねーし。それに、あんなイイ女
に声かけないっていうのは男として間違ってると思わねぇ?」
「お前がそういう思考の持ち主だって言うのも、知ってる。でもこういうのは、知ってい
たからと言って納得できない。……何度八つ裂きにしてやろうかと思ったよ。綾香に近付
く奴を、一人残らず」
 ――オイオイ。えっらい物騒な事考えてやがったんだな……。
 額に冷や汗が浮かぶ。
「だから、八つ当たり……か」
「あいつが誰かと話すたびに、誰かに笑いかけるたびに。そのたびに気が狂いそうになる
んだ。それをどうすればいいか……未だにわからない」
「いいんじゃねーの? そんだけ人を好きになれれば」
「………………」
「感情の押さえが効かないんだろ? で、四六時中綾香のことばっかり考えてる」
「………………ああ」
「いいんだよ。そんな状態になるから、心を奪われるっていうんだろ。……俺だって覚え
がある」
 驚いて振り返った朔の目に飛び込んできたのは、YOSSYの真摯な瞳だった。
 悟ったような、まるで諦観する賢者のような視線。
 その言葉にも、そして表情にも、からかいや、馬鹿にしたような様子はなかった。
「……尊敬するよ。冗談抜きで」
「ま、お前よりは恋愛経験豊富だからな。周りに迷惑をかけるのは頂けねぇけど、誰だっ
てそういう時はあるさ」
 今の一瞬が幻であったかのように、YOSSYの双眸が緩む。
 肯定。
 ――俺が求めてたのは、これだったんじゃないか?
 その事に気付いた時、朔の顔に自然に笑みが浮かんだ。
「なんだ?」
「女じゃなきゃ慰めないとか言ってたのにな。しっかり立ち直らせて貰ったよ」
「……俺は思った事を言っただけで、立ち直ったのはお前の勝手だろ」
 そっぽを向いてガリガリと頭を掻く。
「そーでないとナンパ師としては体裁が悪い」
「そんなもんか?」
「そんなもんだ」
「O.K.そういう事にしとこう……。それじゃ、これは俺の独り言だ。お前には関係な
いことだから聞き流してくれ」
 そう言いはしたものの、次の言葉を告げるというその事に戸惑う。
 頭を振り、視線をさ迷わせてみても、その言葉を口に乗せるきっかけになるようなもの
は、当然ない。
 何故こんな簡単な事に、人はここまで勇気を必要とするのだろう?
 そんな思いに捕らわれもする。
 だがそれでも、言いたいことがある。
 なけなしの勇気を振り絞ってでも、言わねばならない言葉がある。
 それは強制されたからではなく、自分自身がそうしたいと願うからこそ、告げねばなら
ない言葉。
 言いたいのはただ一言。
 ただ一言だけだ。
「………………ありがとう。お前が居てくれて……本当に」
 なんでもない一言だ。
 ありふれた感謝の言葉だ。
 けれど。
 ――人の幸福は、心の底からありがとうを言える事が何回あるかで決まるという、あの
言葉が真実なら……俺は今日ひとつ、幸せになった。そう思っていいんだろうか。
 YOSSYはしばらく無言のまま街灯の光溢れる町並みを見下ろしていたが、静かに立
ち上がった。
「そろそろ帰ろうぜ……」
「そうだな……。ああ、YOSSY」
「んん?」
「さっきは……怒鳴って悪かった」
「気にすんな。俺は気にしてねーよ。……行こうぜ」
「ああ」
 促されて立ち上がる。
「寮に帰る前に、その怪我どっかで応急処置くらいはしとかね〜とな。運が良ければまだ
保健室使えるか?」
「……千鶴先生、腕は悪くないんだがな〜」
「大丈夫だろ? 耕一先生が居る時に診察してもらったら、命に関わるけどな」
「舞い上がって周りが全然見えてないんだよな。前もメスで傷口えぐられたし……」
「うっわ〜。そりゃ痛そうだな。……じゃ、相田先生ならどーだ?」
「あの人筋肉フェチだって噂だぞ? 実際身体をベタベタ触られるから、苦手だ」
「ただの診察だろ? 贅沢な奴だな」
「……そーかぁ?」
 そんな調子で、彼らは山を下り、電灯の消えた学園を抜け、寮に着くまで話し続けた。
 そんなたわいのない会話の繰り返しこそが大切なのだと朔が気付くのは、もうあとしば
らくのことである。