続・メイドロボの実践における実用性に関する考察(後) 投稿者:悠 朔

  五度目の勝負の途中で、足を狙った下段蹴りを膝で止められた。
  六度目の勝負で刀を使った勝負では、モーションが大きく隙が大きい回し蹴
りは実用的ではないと気付かれたようだ。刃で受けられたら足が切断されてし
まう。
  そもそも蹴りは意表を突く攻撃でなければならない。ぎりぎりまで神経を尖
らせた二人が向き合っていて、そうそう繰り出せる攻撃ではない。モーション
が大きければ大きいほど動揺を誘えるが、その分リスクが跳ね上がる。
  頭突き。
  最接近時に有効な打撃だが、七度目の勝負で使ってしまった。
  もう簡単には通用しないだろう。
  腕。
  靠(体当たり)。
  絡み技。
  どれもこれも、もう使ってしまった。
  ではどうするか。
  ――ああもうわかってる。
  今何を為さねばならないのか。
  ――まだ俺は剣技のみで彼女に一度として勝ってない!
  刃を振るう。
  振るい続ける。
  眼前の敵を斬断する為に。ただそれだけの為に。
  昌斗の精神はかつて無いほど研ぎ澄まされている。そうでなければこの連勝
は無かった筈だ。
  昌斗が普段振るっている運命(さだめ)と竹刀では重量が違う。振るわれる
速度はあまりに違っている。受ける衝撃も、要する筋力も、戦術のセオリーも、
何もかもが。
  むしろハンデを負っていたのは昌斗の方だ。
  その中にあってさえ、勝ちを拾ってきたのだ。
  ――今なら勝てる。勝てる筈だ。今でなければ……。

  二度ト勝テナイカモシレナイ。

  一瞬かすめたその思考が、焦りに繋がった。
  焦りは動きの精度を落とし、隙を。致命的な隙を生ずる結果へと繋がる。
「しまっ……!!」
  ほんの僅かに、Dガーネットの動きへの対応が遅れた。
  彼女はその隙を逃さなかった。
  斜め上段からの打ち下ろしより変化する唐竹割り。それは吸い込まれるよう
に額に打ち込まれ、昌斗の身体は後方へ吹き飛んだ。
  八度目の勝負だった。


  昌斗の治療、疲労回復の為に、15分のインターバルが取られる事になった。


「終わりましたね。これは……」
  長髪栗毛。目もとの涼しいそこそこ顔立ちの整った青年が、ぽつりと呟く。
「今度はとーるかよ……。何時からそこに居た?」
  その声を聞いてYOSSYが胡乱げな視線を送る。
  一度ならず二度までも、他に気を取られていたとはいえ誰かの接近に気付か
なかったとなると、ややプライドが傷付く。
「あなたが試合に夢中になっている、そのあいだに」
  不機嫌そう、と言うより不貞腐れた感のあるYOSSYの声にも、とーるは
にこやかに笑みを浮かべて律儀に答える。
  その紳士然とした態度に、YOSSYがますます鼻を曲げた。
「で、何が終わったって?」
「昌斗くんの奮闘ですよ。遠目で正確にはわかりませんが、呼吸、体温、心拍
数ともかなり数値が上がっている筈です。このあたりが限界と見るべきでしょ
う。
  さっきの衝撃で繋いでいたものが途切れたようです。この休憩時間はむしろ
マイナスに働くでしょう。今まで無理に動かしてきたツケが一気に表面に出て
くる筈です。
  彼はもう戦えません。仮に戦えたとしても、万に一つの勝ち目も残ってはい
ないでしょう」
  三人が昌斗へと視線を向けた。
  頭にタオルを被り、呼吸を荒げて座り込んでいる姿が見て取れる。
「……ああ。そうかもな」
「そうかな?」
  YOSSYが肯き、朔が疑問符を浮かべた。
  とーるの眉間にかすかに皺が寄る。
「あれでもまだ、戦えると?」
「知らんよ。そんな事」
  朔はにべも無い。
「お前達もこの実験の趣旨ぐらい理解しているだろうが、俺はこの実験は無意
味だと思ってる。思っているどころか、無駄だと確信してる。
  それでもここに居るのはな、あいつがどれだけの代物か見極めたいからだ。
俺が見込んだ通りなら……」
  朔はニヤリと笑みを浮かべた。
「盛り上がる前に終わられたら興が醒める。そうだろ?」


  ほどなく九本目の勝負が始まった。

  脳震盪を起こしたせいか、頭痛が酷い。
  それでもぐにゃぐにゃと視界が揺れていた先程までと比べれば、各段にマシ
とは言えた。
  頭部からの出血は一応止めたものの、血止めに巻いた包帯代わりのバンダナ
は赤く染まっているだろう。
  ――身体が重い。
  まるで自分の身体ではないみたいだ。
  脚を一歩踏み出すだけで異常なほど労力を要する。さっきまで羽のようだっ
た竹刀が、まるで鉄の棒を振り回しているかのようだ。
  風を切り裂き旋回する必殺の凶器をやり過ごし、昌斗は細く嘆息した。
  動きが鈍い。
  今のは反撃の絶好の機会であったはずなのに、身体は後ろに下がった事でな
んとか回避し得た。それだけでしかない。
  この後に及んでまだ昌斗は冷静だった。
  冷静に己の動きの限界を見据え、Dガーネットの技量を正確に捉え、状況を
把握し、引き出せる力を駆使して戦う。
  踏み込み、限界まで引き絞った弓の如く斬撃を、放つ。
  Dガーネットの紙一重の回避。
  彼女はその動作を停滞させる事無く一挙動で接近。胴に貫くような蹴りが来
た。
  避けられない。
「ぐっ、うっ……」
  後方へ押しやられながら耐える。
  痛みを無視し体勢を無理やり立て直した時には、すでに遅かった。
  喉を狙った刺突を避け損ね、肩に喰らう。
  ダメージの想定などと無関係に、右腕が使い物にならなくなった。


「……甘い、よ。君は。あれから何も変わってないんだね」
  夕暮れにさしかかり、強かった日差しも翳りを見せ始めた。
  道場の入り口から長い影を射し込ませながら、中の様子を伺い、きたみちも
どるが静かに呟く。
  左腕一本で凌げるほど、Dガーネットは甘くない。すぐに退路を絶たれ、昌
斗は猛攻にさらされる。それを防ぐ術が、すでに彼には残されていない。まる
で詰み将棋のように、的確で、隙の無い連続した攻撃。ガードをこじ開けられ、
とどめの、容赦の無い一撃を左肩に受ける。
  昌斗はその衝撃に呼気を吐き出し、ふつりと崩れ落ちた。
  ――これで両腕の力は失われたはず。どうする?  まだ続けるのか?  続け
ても君に勝ち目は無い。それは多分、もうわかってるだろう?  佐藤君。
  わかっていても、止まれないのかもしれない。
  その気持ちがもどるにはわかっていた。
  多分僕達は幸せだと、もどるはそう考える。
  銃器の開発以降、剣術は伝統の技として尊敬されこそすれ、実用される事は
なくなった。
  剣道の隆盛以降、剣術は半ば邪法とされ、日の目を浴びる事はほとんどなく
なってしまった。
  それも仕方が無い。競技として競う場で、相手を短時間でいかに上手く屠る
かを追求した技術など、使う機会があるはずがない。それは廃れて当然の技術
であったし、それが実際に使用されないことこそ平和の証であるとも言える。
これはそういった技術なのだ。
  だが実際にその技を身に付けた者ならば、試してみたいと思う時が必ず来る。
競ってみたいと思う時が、必ず来るのだ。
  その機会が与えられる事がどれほどの喜びか。それに命を賭ける事が出来る
事がどれほどの歓喜を生むのか。余人に到底、理解できるものではないだろう。
同じ生き方を選んだ者にしか、理解できないものだろう。
  だがそれでも、
  ――君は剣士として、致命的に甘いんだ。
  もどるは悲しげに眉を顰めた。
  その境地にあってさえ、昌斗の攻撃はDガーネットを破壊するためのもので
はない。判定で『致命傷を与えうる損傷』と判断されたとしても、実際の『致
命的損壊』にはほど遠い。昌斗はそれが可能な場面でも、その威力を刃に乗せ
ていない。
  練習であるならばそれは良いかもしれない。
  だが勝負であるならば、それは単なる甘さでしかない。
  Dガーネットの攻撃をまともに受ければ、昌斗は下手をすれば命を落とす。
にも関わらず、昌斗の心の奥底には、恐怖も、怒りも、何も無い。ただその総
てを受け入れているだけだ。
  ――それは大事な一面ではある。けれどそれじゃダメなんだ。
  もどるの目から見ても、昌斗の技量はすでに一端の剣士として恥ずかしくな
いものになってきている。もはや大きな技術的な進歩は望めないだろう。あと
は経験と直感が導き出す駆け引きに拠るしかない。
「ち〜ち〜う〜え〜!」
  ふと聞こえた幼い少女の声に、もどるは頭を巡らせた。
「静」
  見ればパタパタと足を忙しなく動かしながら駆け寄ってくる小さな影。
  その勢いのまま、もどるにしがみつく。もどるは優しく、愛娘きたみち静を
抱き止めた。
「どうかした?  そんなに慌てて」
  少し心配して、問う。
  静はもどるの胸の中で頭を振った。
「そろそろ帰ろうと思ったの。でも屯所にも教室にも父上が見当たらなかった
から、探してたの」
  ニパッと微笑み見上げる少女に、もどるは自然と笑みを返す。
「そっか。悪かったね、探させちゃって。疲れたろ?」
「ううん。静が勝手に探してただけだから。一緒にお買い物して、帰ろ?」
「うん」
  肯いて、ひょいと静を抱き上げる。
「ち、父上!?」
「ほら、やっぱり疲れてる。息が上がってるじゃないか」
「そんなこと……」
「いいからいいから。スーパーまで抱いていってあげるよ」
  一瞬だけ否定しようとしたものの、それならと静はもどるの首にしがみつい
た。
「あはは、静は甘えん坊だなぁ」
「えへへ……。父上もだよね」
「ありゃ。これは一本取られたなぁ」
  もどるがおどけ、静が笑う。
  ――僕には守らなくちゃならないものがある。
  心の奥深くで静かに思う。
  ――如何なる者からも、たとえそれが死そのものであったとしても。
  この娘の笑顔を護るためなら修羅にも悪鬼にもなる。悪魔に魂を売っても構
わない。
  ずっと前にそう決めた。
  いつか佐藤君にもそんな相手が出来れば良いと、
「今日の晩御飯はお蕎麦が良いな」
「よ〜し。じゃ、大根おろすのは静の役目だぞ」
  家路を辿りながら、もどるはそう考えていた。


  両手を腰に当て、道場の真中で大の字になってひっくり返っている昌斗を見
下ろす。その呼吸は荒く、収まる様子も無い。
  朔は鼻で笑い、
「ざまーねーな」
  さも馬鹿にしたように言い放った。
「……なんだよ」
「おや聞こえなかったか?  無様だ、と言いに来た」
「……ッ!  だったらお前が戦ってみろよ」
  反論はしない。
  確かにその通りだとも思う。
  だから負け惜しみとも取れる、そんな言葉が口をついて出た。
  もう一度、朔は鼻で笑う。
「馬鹿言うな。今の俺では勝てん」
「……自信満々で言う事か?」
「単なる事実だ」
  ――アレと戦う装備は今日持ってきてない。
  と、心の中で付け足す。
  持ってきていれば勝てるか?  と問われれば、多分答えに窮するだろうが、
7:3か8:2程度で有利だと踏んではいる。
  勝つだけなら何も刀勝負にこだわる必要は無い。まず自分に有利で、相手に
不利な状況を作る。この場合なら遠距離から蜂の巣にするだけだ。機動力でこ
ちらの方がやや上である以上、常に距離を取っていれば負ける要素はほとんど
無い。走行時の持久力では劣るだろうが、それならば先に足を潰せば良い。そ
うすれば勝率は各段に上がる。
  逆に体術で明らかに劣る相手なら接近戦に持ちこめば良い。相手の弱点を、
よりえげつない方法で、的確に突く。朔の戦い方とは本来そんなものである。
  数多の技を駆使する彼にとっては情報分析能力と戦術の幅こそが至上の武器
だ。
「どっちが無様なんだか……」
  呆れたような昌斗の呟きに、朔は「お前」と即答。
「彼我の状況把握は勝利の絶対条件だ。それを誤って潰れた蛙のように転がっ
てるのを無様と言わずに何と言えば良い?  数を重ねる毎に動きをビクビクと
縮こませやがって。……情けない。一度や二度止められた程度でアレの防御が
鉄壁にでも見えたか?」
「…………」
「お前の刃はそれほど安っぽいものだったのか?  と、そう聞いてんだけどな。
聞こえてるか?」
「実際対峙したら、そんな事考えてる暇あるわけないだろ」
  朔は少し目を見開いた。
「なるほど……」
  その瞳に失望の色が浮かぶ。
  そんなものかもしれないし、そんな事ではダメなのかもしれない。
  朔はふと考える。
  自分の武器は分析能力と戦術の幅。
  そんなことはわかりきっているし、わかりきった答えを模索する意味も無い。
  ――では何故こんなところでこいつの戦いを観戦していたのだろう?
  それもわかりきった答え。
  様々な理由を考え、悩み、検討し、それでも行き着く答えは一つしかない。
  ――単に俺が剣術にこだわりたいからだ。
  他の理由なんて後からとって付けただけのものでしかない。そう納得すると、
奇妙にさっぱりした気分になった。
「では俺がアレの相手をしても構わんのか?」
  言いながら朔が親指でDガーネットを指す。
  負けたところで構うものか。朔を動かしたのはそんな気分でもあった。今日
無理でも明日勝てば良い。明日が無理でもまだ先に道は続いている。負けたと
ころで失うものなど何も無い。何も無いなら敗北を恐れる理由も無い。最後ま
で勝利を信じる心があれば、命ある限り負けではない。
  同時に、
  ――だが、今日の主役は俺じゃない。
  それも彼は理解していた。
「え?」
  床に転がったまま見上げる昌斗。
  その瞳を凝視したまま、
「柳川も長瀬もこれまでの経過である程度満足のいくデータを取ることが出来
ただろう。お前の体力的な限界も近い筈だ。お前が止めると言うのなら、ここ
でこの実験は終わりになる。
  ……お前は負けたまま終わるつもりか?  アレを越える気概がお前にまだあ
るか?  よく考えて答えろよ、佐藤昌斗」
  朔の目は真剣そのものだった。
「俺は……」
  逡巡する。
  肩のダメージは思った以上に大きい。
  痛みは気力で無視出来るが、思ったとおりに動かないかもしれない。骨折は
していないが、もしかしたらひびくらい入っているのかもしれない。
「俺は……」
  答えに詰まる。
  立ち上がっても勝てないかもしれない。
  こちらは不利な状況がどんどん重なっていくのに対し、相手は可動部を冷却
すれば準備はほぼ万全だ。
「俺……は……」
  では止めるか?
  止めてしまうか?
  こんなところで?  まだ終わってもいないのに?
「……冗談!  俺の番がまだ終わってないだろが。野次馬は大人しく引っ込ん
でろよ」
「結構。ではそのようにしよう」
  朔はあっさりとそう答えた。
  もう少し絡んでくるかと思っていた昌斗が、意表を突かれて目を見開く。
「これを傷口に貼れ。治療の足しにはなる。気孔の呼吸法は習得しているな?
お前に合わせて"剄"を送りこむ。それで符の効果を最大まで高める事が出来る
筈だ。今は体力の回復だけを考えろ」
「お、おい……」
「何やってる?  さっさと身体を起こせ」
  有無を言わせぬ調子に押され、慌ててその言葉に従う。
  朔は昌斗の背後へとまわった。
「霊活の……治療符か」
  渡されたものを確認し、そう呟く。
「そうだ。だが術者の力量が不足だからな。たいした効果は望めない。気孔で
相乗効果を狙うから、さっさとしろ」
「……呼吸法って、何?」
  ビシッと、朔の額に青筋が浮かんだ。
「守一によって周天を得て、内丹を得る。出来るだろ?」
「?」
「……三層九歩」
「?」
「練精化気以固体
  練気化神以致用
  練神還虚以養生」
「?」
「胎息。服気。行気、錬気」
「?  ?  ?」
  ブチン。
  朔の中で何かが切れた。
「だぁっ!!  なんで降雨の一族の者が内丹法も知らんのだ!?  気孔法の基
本だぞ!  貴様それでもホントにあの刀を振るう守護剣士か!?  って言うか、
どういう教育受けてきたんだ今の今まで!!」
  わめき散らしながら喧嘩キック喧嘩キック喧嘩キック。
  昌斗の後頭部に連続して蹴りを入れる。
「ちょ、いきなり何切れてんだお前!  落ちつけよ、蹴るなコラ!  ……いや
それより、そっちこそなんでそんなこっちの事情に詳しいんだよ!?」
「神道の世界は狭いんだよ。まして降雨神社は大手だ。本気で調べりゃある程
度の情報は手に入れられるし、去年のお前の活躍を調べればあらかたの予測ぐ
らいは立つ。外れてね〜だろが?」
  昌斗の顔面から血の気が引く。
  朔はカマにかけただけで、昌斗はまんまと引っかかってしまったのだ。
「あ……う……」
  別段隠していたわけではない。
  知られて困る事でも別にない。
  だが、自ら触れてまわるようなことでも、また、ない。
  ただ、手札は極力隠す方が良い。
  この混沌を具現化したような学園では、特に。
  ただそれだけのこと。
「くそっ。道教は陰陽思想にも組み込まれたものだぞ。知ってて当然……」
  昌斗の動揺を、しかし朔はまったく無視した。どう転んだところで自分に深
く関わる事象ではないという判断のもとに。そうである以上、彼にはそれに頓
着する理由がない。
  どうでもいい事の筈なのだ、彼にとっては。
  にも関わらず、彼は己の苛立ちを御するのに随分と苦労していた。
  ぶつぶつと文句を言い募り、ふとまじまじと昌斗を見る。
「……陰陽道は神道を組み込んだが、神道には縁が薄かったか?  国外からの
新たな思想の導入は、普通互いに影響を与え合うものだと思うが……」
  だとしたら的外れの八つ当たりもいいところである。
  それに不満を並べ立てたところで、昌斗が気孔を習得していないという事実
が変わる訳でもない。
  しょうがないと、朔は嘆息した。
「もういいから呼吸を深く、穏やかにしてそこに座ってろ。怪我をしている個
所に力が巡るイメージを強く持て。あとは俺がやる」
「お、おい……」
「あぐらをかいて正面を向け!  呼吸を乱さず、力を溜め込むように腹に力を
入れろ!」
「は、はいっ!」
  語気に押されて慌てて指示に従う。
  その背後で、朔は呼吸を整え構えを取り、気を練り込み始めた。
  道教『淮南子』に曰く、「道の原始たるや、虚空が生じ、宇宙(時空)が生
じ、その宇宙に元気が生じ、その元気の重層に境目がたった。澄み輝けるもの
は高くたなびいて天空となり、濁りしずもるものは凝り滞って大地となった。
天と地との精気は重合して陰陽をつくり、陰と陽の二精気は団集して四時(春
夏秋冬)をつくり、四時それぞれの精気が散布して万物をつくった」と伝う。
  つまり"気"は天地一切万物の根源である。
  それを自在に操るという事は事象を操ること。
  所詮人の身である以上万能ではない。だが、万能に一歩なりと近づくことは
出来る。
  昌斗は熱くなる自分の身体の中に、外部から不可視のエネルギーが流れ込ん
でいる事を自覚した。その力を額と両肩。言われたとおり怪我をした部分に行
き渡るように意識する。
  朔の深い、独特の呼吸音だけが耳朶を打つ。
「…………」
  そうしてしばらくする間に、昌斗はコツを掴んだ。
  送りこまれてくるエネルギーを怪我に与えるだけでは効率が悪い事に気付い
たのだ。一度傷口に送ったエネルギーを、そこで体外に放出せずに循環させる。
"気"は全身を巡り、外部から送りこまれた"気"と交じり合い、練り込まれ、さ
らに濃密なもの――"神"――へと変容する。
  もしオーラを視覚として捕らえる事の出来る者が近くに居たなら、昌斗は巨
大な火柱に包まれているように見えた事だろう。
「これは……驚いた。思った以上に筋が良い」
  冷や汗を浮かべて朔が呟く。
  もう"気"の放出は行っていないが、昌斗を包む火柱は消える様子も無い。ど
ころか勢いを増してさえいる。
  もともと日本武術を習得するにあたって素地が出来ていたのは確かだろうが、
それにしたところでその感覚を掴むのは容易いことであるはずがない。
  ――俺の、どころか気孔術師の立つ瀬が無いな、これは。
  朔は楽しそうに、満足そうに笑みを浮かべた。

  しばらく様子を伺い、朔は両手を強く打ち合わせた。空気を叩く乾いた音が
周囲に響き渡る。
「うわっ!?」
  その音に驚いたのか、半ばうつむいていた昌斗がいきなり勢い良く顔を上げ、
そのまま体勢を崩して後ろへひっくり返った。
  途端に、昌斗の周囲からオーラが作る炎が消える。
「"気"の使用の際には気をつけた方が良いぞ。言ってみれば生命力そのものだ
からな。無駄に消耗しすぎると命に関わる」
「え?」
「尤も、トランス状態になった人間がどうやって自分で気をつけるか、なんて
俺は方法を知らんが……」
「……え?」
「ある程度習熟するまで指導できる人間が近くにいた方が良いだろう。この学
園で言えばT-star-reverseが適当なはずだ。なんと言っても仙導師だからな。
あいつなら頼めば引き受けてくれると思うぞ。俺と違って人が良いし、"気"の
扱いにも長けてるはずだ」
「あ、ああ。うん」
  意識の半ば以上が覚醒していない昌斗が、条件反射的に肯く。
「……ホントにわかってるか?」
「え?  あ、えっと……何が?」
  朔は溜息して肩を竦めた。
「いや、いい。怪我の具合はどうだ?」
  問われて昌斗は身体の具合を確かめる。
  頭痛が収まっているし、両肩を交互にさすってみても痛みがほとんど引いて
いる。腫れもほとんど無い。
  意識が次第にはっきりするに従って感覚が澄み渡っていく。先程までと一転
して身体に活力が溢れていた。立ち上がる事にさえ難儀しそうだったさっきま
でと異なり、今すぐにでも走り出せそうだ。
「信じ……られない」
「気孔の効力の一端だな。お前ならいずれ習得出来るだろ。お前の才覚ならそ
れによって剣術もさらに一段上を目指せるはずだ」
  まあ頑張れ、などと無責任な台詞を残して、用は済んだとばかりに朔は試合
場の白線の向こうへと歩き出す。
「なあ」
  その背中に、昌斗は問いかけた。
「なんでこんな事をしてくれるんだ?」
  歩みを止め、首だけ昌斗の方へ向け、逆に少し不思議そうに朔は尋ねた。
「なんで?」
「いや、聞いてんの俺」
「あ?  ああ、いやすまん。……そうだなぁ。なんでって、改めて聞かれたら、
俺のため?  か?」
  自問して答えを探す。
  よくわからない。
  わからないのでそれらしい答えを探してみる。
「お前には高みに居てもらわないと、追う立場としては覇気が萎えるだろう。
だから……だと思うが、どうだろ?」
  また自問。
  困惑したまま、朔は思いついた言葉を羅列していく。
「佐藤はひづきの『頼りない』従兄なんだそうだ。その『頼りない』とか『情
けない』とか言う時のひづきはいつも本当に不満そうで……だなぁ。それに一
年の……なんと言ったっけ?  そうそう、松原だったか。知ってるだろ?  あ
いつも部活に所属してないのを残念がってた。お前の蹴りは勿体無いとさ。俺
もそう思う。部活云々はともかく」
  そこまで言って、朔は右手でガリガリと頭を掻いた。
  いつも理屈詰めの説明ばかりを心がける彼にしては、わりと支離滅裂な言葉
だ。喋っている途中でその自覚が出てきたのだろう。なんだか照れる。
「……ええと、つまりだな。何が言いたいかと言うと、つまり、お前に期待し
てるのはひづきやその松原だけじゃないと、そういう事だ。 Verstehen(理解
しろ)?」
  一瞬ポカンと虚を突かれた表情を浮かべた昌斗は、次いでクックッと笑いだ
した。
  それを見て、朔がものすごく嫌そうな顔をする。朔の心情を昌斗が誤まり無
く見抜いた事を、なんとなく悟ったからだ。
  頭を振り、なんとか気分を立て直す。
  昌斗が勝負を挑む前に、言っておかなければならない事がある。
「気孔術はある程度の活力を与えてくれるが、所詮一時凌ぎだ。お前の体力が
尽きかけているのに変わりはない。次がラストだ。それ以上は保証出来ない」
  外気――天地総てより湧き出す気――を活用出来るなら話は別だが、朔はあ
くまで己の丹田より出る内気を操っているに過ぎない。分け与えられた側の昌
斗がほとんど無駄無く有効に活用したと言っても、与える段階でロスも出る。
  お互いの気を巡らせ活性化させる『房中術』というものがあるにはあるが、
系統が違う朔はそれを習得していないし、仮に習得していたとしても同性相手
には効果が無い。追記すれば死んでも使いたいとは思わない。
  朔が出来る事はやった。
  あとは昌斗次第だ。
「佐藤」
「なんだよ?」
「……勝てよ」
「努力するよ」
「良い返事だ」
  朔が肯いて白衣を翻す。
  今度は昌斗は呼び止めなかったし、彼も振り返らなかった。


  闖入者が退場し、試合場内に立つのは昌斗とDガーネットだけになる。
「待たせたね」
「イエ……。ソンナ事ハアリマセン」  
  昌斗の体力が回復したのと同様に、彼女の方も一通りのメンテナンスチェッ
クを終え、準備を完了させている。
「それじゃ、始めようか?」
「ハイ」
  肯き、お互いの間合いよりほんの少し離れた位置。そこでDガーネットが下
げていた竹刀を持ち上げる。
  変わらぬ、愚直なまでに変化の無い、中段の構え。
  対して昌斗は八相の――上段の構えから鍔を口のあたりまで下げ、やや左半
身に――構えを取った。相手の攻撃を迎撃し、八箇所に任意に打ち込む事が出
来るとされる陰の構え。大地に根ざした大樹に喩えられる木の構え。
  この構えには相手の動きを冷静に見据え読み取る眼力と、それに対応する斬
撃速度を要求される。
  昌斗が運命に頼らず己の力を計るのに、うってつけの構えであるとも、言え
るかもしれない。
「これが……ラストだっ!!」
  幾人かの観衆が見守る中、昌斗の静かな闘気が会場を満たした。